(2017年11月)

 ・ 11月26日
 ・ 11月19日
 ・ 11月12日
 ・ 11月 5日
 




 11月26日
メッセージ要約 主題:「わたしはまことのぶどうの木」

           ヨハネの福音書15:1~5  豊村臨太郎伝道師

<ヨハネの福音書の概要>

ヨハネの福音書は大きく2つに分けることができます。前半は1章から12章で、イエス様がなされた7つの奇蹟(きせき)と教えが記されています。著者ヨハネはそれらを通して、イエス様が世界を照らすまことの光、永遠のいのちをあたえる神の子、救い主であることを伝えています。後半は13章から21章で、「最後の晩餐」として知られる過越しの食事の席でイエス様が弟子たちの足を洗われた出来事から始まります。その後、十字架を前にイエス様が弟子たちに語られた説教があり、ユダの裏切り、十字架、葬り、復活と続きます。最後はガリラヤ湖の湖畔で弟子たちと食事をするシーンで終ります。後半のテーマは「愛」で、そのクライマックスが十字架と言えます。今日取り上げる15章1節~5節は、福音書の後半部分に収められた説教の一部で、有名な「ぶどうの木」の譬(たと)えです。今年の久遠教会のテーマ「キリストのからだ」とも繋がりのある箇所です。


<背景として:旧約聖書における「ぶどうの木」>

 旧約聖書では、イスラエルが「ぶどうの木」や「ぶどう園」に譬(たと)えられています。詩篇80篇8~11節には、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出し、神様が用意された場所に「ぶどうの木」のように植えたというイメージが描かれています。しかし、残念なことに旧約聖書では一貫してイスラエルが神様の願いに反して「悪い実」しか実らせない「腐ったぶどう」だと言われています。預言者エレミヤは、「質の良いぶどうとして植えられたのに、質の悪い雑種のぶどうに変わった」と言いました(エレミヤ2:21)。またイザヤも、「主が喜んで植え、正しく成長するはずが、不正や流血ばかりだ。イスラエルは悪い実しか実らせない腐ったぶどうだ。」と嘆いています(イザヤ5:7)。しかし、それはイスラエルのことだけでなく、罪に堕落した全ての人間の姿でもあります。生まれながらの人間はどんなに良く生きようとしても、「罪の実」しか結ぶことができません。パウロは、ローマ人への手紙3章で、「義人はいない。ひとりもいない。」と言っています。全ての人間は、生まれながらの罪人で、神様に喜ばれることができない「腐ったぶどう」のような存在です。


<1節>

 そのような背景で、イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。「まこと」と訳される言葉は「ひな形に対する原型」「完全なもの」という意味があります。旧約聖書のイスラエルは不完全なひな形で、イエス様こそ「完全なぶどうの木」であり、「神様に喜ばれる実を結ぶことのできるお方」だということです。罪しか実らすことのできない私たちが「完全な」イエス様を信じて繋がることで、神様の前に「完全なもの」「正しい人」とされます。そして「良い実」を結ぶことが出来るようになるのです。パウロはコリント人への手紙第一で「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖(あがな)いとになられました。」(Ⅰコリント1:30)と述べています。自分の努力ではなく、神様によって、私たちはイエス様の中に入れられています。ですから、「まことのぶどうの木」であるイエス様から「正しさ」「聖さ」「罪の赦し」「霊的ないのち」が流れてくるのです。それが「ぶどうの枝」である私たち、「キリストのからだ」としての教会です。


<2節>

 イエス様は、当時の人々が思い浮かべやすい「ぶどう栽培」のイメージを用いて、父なる神様の愛に溢れた姿を伝えようとしています。日本のぶどうは「棚作り」で栽培されますが、当時、イスラエルのぶどうは、枝をそのまま地面にはわせて栽培することが多かったと言われています。石を取り除き、土地を改良し、手入れしながら育てます。父なる神様は、農夫のように愛と手間をかけて私たちをお世話をしてくださるお方なのです。「枝を取り除く」と「刈り込みをされる」は、よく似た発音の言葉が使われた掛詞(かけことば)になっています。「手間を惜しまない農夫がぶどうの枝がより豊かに実るために、注意を払い手入れしている姿」が表現されています。神様は、すでにぶどうの木につなげられた枝に、豊かな実を結んでほしいと願っておられます。言い換えれば、イエス様に救われ、永遠のいのちが与えられた私たちに、豊かな信仰生活を送って欲しいと願っておられるのです。


<3節>

 「きよい」という言葉は、原語では2節の「刈り込みをする」と同じ言葉です(形容詞と動詞)。ですから、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでに刈り込みをされている」と、理解することができます。「わたしが話したことば」は「イエス様が語ってこられたみ言葉」です。イエス様は3年半の生涯の中で、弟子たちに沢山のメッセージを語ってこられました。

 多くの場合、弟子たちはその意味が理解できず、的外れな反応もしました。それでも、イエス様と共に歩み、み言葉に触れ、訓練されてきました。大切なのは自分の努力ではなく、み言葉に対する信頼です。イエス様のみ言葉を聞き、自分自身をみ言葉に合わせてゆくとき、聖霊が働いてくださいます。余計なものが刈り取られ、ぶどうの木であるイエス様のいのちが豊かに流れてくるのです。


<4節>

 「わたしにとどまりなさい」を丁寧(ていねい)に訳すと「わたしの/なかに/とどまりなさい」です。注意して読みたいのは「つながりなさい」ではなく「とどまりなさい」です。イエス様を信じた私たちは、すでに神様によって、イエス様につなげられているので、その状態に留まり続けるということです。一生懸命に自分でつながろうとする必要はありません。既に神様によってつなげられていることを信じて、そこに「とどまりなさい」とイエス様はおっしゃっています。「とどまる」という言葉は、新約聖書の別の箇所では「宿泊する」という意味でも使われています。靴を脱ぎ、足を洗い、宿に泊まる。「イエス様にとどまる」というのは、そのような親しい交わりです。イエス様のみ言葉を聞き、心に留め、どんなこともありのままで祈る。そのようなイエス様との親しい交わりに留まるとき、自然に実を結ぶことができるのです。


<5節>

 「実を結ぶ」という表現は、ヨハネの福音書の中では、もう一カ所12章24節で用いられています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という、イエス様がご自分の十字架の死について語られた箇所です。イエス様は、全ての人間の罪の為に死んでくださり、それによって神様との関係が回復しました。十字架の死によって救いの恵みが広がることが「実を結ぶ」という意味です。そして、その救いが私たちを通して証され広がってゆくのです。繰り返しますが、「枝」だけでは実を結ぶことはできません。でも「ぶどうの木」であるイエス様に留まっていれば、自然に実を結ばせていただけるのです。その為に神様は愛を注ぎ手間をかけ、私たちを手入れして下さっています。ですから、私たちが自分の力で何かをしなくても良いのです。神様によって、既にイエス様につなげられているのですから、そのままイエス様のみ言葉に、イエス様の愛に、イエス様との交わりに留まり続けましょう。「農夫」である神様の愛の御手におゆだねしましょう。そこから恵みと平安と喜びが豊かに流れてきます。少し先の11節でイエス様は言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15章11節)


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 11月19日
メッセージ要約 主題:「信仰の自立」

           ルカの福音書22章35~38 三浦真信牧師

<35節>

 弟子たちとの最後の食事の席でイエスが語られた続きです。イエスはかつて70人の弟子たちを町や村に派遣しました(10:1~20)。その時には、財布も旅行袋も持たずに出ていき、彼らを受け入れる家で出される物を食べるように命じられました。そしてその通り何も持たずに出て行って、弟子たちが困ることはありませんでした。むしろイエスの言われた通り必要な物は与えられ、行くところ行くところですばらしい主のみわざが起き、彼らは喜んで帰ってきました。主イエスが遣わしてくださる時には、生活のことすべてを主が責任をもって守ってくださいます。何も持たないほうが、よりその事実を経験することができます。主イエスは、私たちの生活に関わってくださる方です。ですから経済のことも、現実生活の悩みも、どのようなことも、ひと足ひと足主に頼り祈りながら歩んでいくことができるのです。

 あまり満ち足りて安定すると、人はすぐ主を忘れてしまいます。ですから、特に順調な時には、高慢にならずにしっかり「主を心に据えなさい」と命じられています(申命記6:11~14、8:17~18)。謙虚に主を求めるように、神様は適度に私たちに不足感、弱さ、苦難を与え、祈らずにはやっていけないようにされます。生活の真っ只中で主を呼んでいくようにしてくださっているのです。「われらに日用の糧を今日も与えたまえ」(主の祈り)と、一日単位で祈るようにしてくださっています。神の国とその義をまず第一に求めるなら、私たちの必要をご存知の主は、ちゃんと必要を満たしてくださいます(マタイ6:31~34)。ですから明日のための心配は無用です。そのように言われても、また明日のことを心配してしまう私たちです。ですから、この主のみことばをたえず思い起こして「イエス様がそのように言われたから、その言葉が私の身になりますように」と祈っていきましょう。

 主イエスは、私たちの具体的な生活に関わってくださいます。経済のこと、将来の不安、仕事や学校のこと、社会の不安、人間関係のもつれなど、どのような出来事にも主は関わってくださいます。そして災いのように見える出来事も、決して悪いようにはされません。どのような状況の中でも、「主は良いお方」「主は必ず最善をなさる」と信じて、祈り続けましょう。


<36節>

 これまで目に見える人としてのイエスが、弟子たちといつも一緒におられました。そしてイエ スの名のゆえに、弟子たちを人々も受け入れてくれました。しかしこれからイエスが捕らえられ十字架にかけられることで、弟子たちの立場も一転します。今までのようではなく、イエスの弟子であるために迫害されます。これからは状況が全く変わることを、イエスは弟子たちに宣言しました。ですから必要な物は自分で備えるようにと、ここで弟子たちのこれからのことを配慮してくださっています。

 ただし必要な物を主イエスがその時々に備えてくださることは変わりません。このように言われたからといって、これからは何でも自分の力と自分の計画だけで生きるようにと主が言われたわけではありません。お金のことも、持ち物も、自分の身を守ることも、究極的には主が共にいて助けてくださいます。備えや守りが不十分であっても、主ご自身が助けてくださいます。何よりも私たちを唯一の敵であるサタンから守るのは、「御霊の与える剣である、神のことば」です(エペソ6:17、へブル4:12)。神ご自身が必要を与え、危険とサタンの罠から守ってくださることに変わりはありません。


<37節>

 「彼は罪人たちの中に数えられた」という旧約の預言(イザヤ53:12)は、必ず実現します。事実イエスは、すべての人の罪を負って十字架で死なれました。そして「わたしにかかわることは実現します」と言われた通り、イエスにかかわることは、これからも必ず実現するのです。キリストの再臨、すべての人が神の審判を受けること、世界の滅亡、新天新地の到来…も、必ず実現するのです。

<38節>

 イエスが36節で「剣を買いなさい」と言われたので、弟子たちは「ここに剣が二振りあります」と答えます。この剣は、過越しの食事で羊を屠る(殺す)のに用いた物でしょう。イエスはこの言葉を聞いて、「それで十分」と言われました。この原語の意味は、「もうその話は十分だ、もう結構、そこまで」というようなニュアンスがあります。これまでも弟子たちは、イエスの言葉を文字通りの見える物で理解しようとしていました(マタイ16:6~8など)。確かにイエスは、これからは (裏面に続く) 「剣を買いなさい」と言われました。しかしこれから弟子たちが直面する試練は、目に見える剣では到底太刀打ちできない戦いでした。まさに「御霊の剣」である神のことばなしには、とても乗り越えられない霊的な戦いなのです。「ちゃんとここに剣がありますよ」と満足げに二振りの剣を差し出す弟子たちを見て、今はまだイエスの言われる真意も受け留められない彼らを理解し、イエスはもうそれ以上お話にはなりませんでした。でもイエスは、私たちの肉でしか理解できない不信仰にもつきあってくださり、時間をかけて主の御心を教えてくださいます。


 ここで弟子たちとの最後の過越しの食事を終え、いよいよイエスが捕らえられ十字架にかけられる時間が迫ってきます。これまで手取り足取り弟子たちを教え、また守ってこられた人間イエスは去っていかれます。これからは、弟子たちが神直接に自立した信仰で歩んでいかなければなりません。目に見える人間イエスを通しての間接信仰では、歩んでいけなくなります。イエスの弟子であることで、彼らもすごい信仰者であるかのように思い違いしていた節があります。でもそのような誰かの信仰に乗っかった間接信仰は、必ず崩れてしまいます。自立した神直接の信仰に、どこかで切り替えられる必要があります。事実、この後イエスの弟子たちは、イエスが捕らえられると皆イエスを見捨てて逃げ去ってしまいます。

 私たちも、人を通して信仰に導かれ、誰かに祈られ、信仰者として成長していきます。しかしだからといって、いつまでも人を介して信仰をしているつもりになっていては、どこかで行き詰ります。ひとりひとりが、教会のかしらであるキリストに堅く結びつくときに、そのひとりひとりが結び合わされて、神によってキリストのからだ全体が成長させられるのです(コロサイ2:19)。まずひとりひとりが、かしらなるキリストに堅く結びつくことが大切です。神様直接の自立した信仰者が結び合わされて、教会は成長させられるのです。神直接だからといって、交わりが必要でなくなるわけではありません。御国の民として、互いのために祈りあい、主の御心を共に求めていく交わりは生涯不可欠です。常にかしらなるキリストの神に結びつくことを大切にしながら、共に御国を目指す兄弟姉妹と交わりましょう。御霊の剣であるみことばの力を、互いに分かち合いましょう。


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 11月12日
メッセージ要約 主題:「こころゆたかになるために」

           ヨハネの福音書15章15節 カイク加藤牧師(葛飾中央教会)

 「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネの福音書15章15節)  

 この時代は、多くのものが溢れていて、物質的には豊かな時代です。しかし心が豊かであるのかを考えると、そうではない時代です。 先日も9人の若い女性が殺される事件が起こり、アメリカでは銃により多数の人を殺害される事件があり、それらを起こす人達は心が豊かではないと思います。私たちが心は豊かだろうかと思う時に、心の中では人のものを欲しがったり、人を馬鹿と思ったり、意地悪をしたり、人を赦せない心があったり、ありがとうやごめんなさいを言えなかったり…、など心は豊かでないと思います。

 友達にいじめられたり、一人ぼっちだと思う時があるかもしれません。でも忘れてはいけません。イエス様が私たち一人一人に、「わたしはあなたの友達だよ」と言ってくださいます。

 私たちは、誰よりも勉強ができて優れた者になれば、あるいはお金を稼げたり、素晴らしい仕事についたりしたら、心が豊かになるのでしょうか。ルカの福音書12章の金持ちの農夫のたとえがあります。この裕福な農夫が豊作の時に、倉を建てて収穫物を納め、安心して楽しんで暮らしてゆこうと思いました。それに対して神様は、今晩お前の命が取られたら、その蓄えた物は誰のものとなるのかと言われた、というのです。神様を第一としなければ、いくら多くのものを得ても、何にもならないということです。イエス様の招きに従って、イエス様を友として歩むことが大切です。

 インドのある島で一人の女の子が、イエス様が友達だと宣教師から聞いて、それを単純に信じました。若くしてお嫁さんになって、洗濯や水汲みなどの辛い労働(家事)をしていても、いつもニコニコしていたそうです。その姿を見ていた多くの人は、やがてイエス様を信じるようになりました。

 私たちは一人では生きて行けません。この世の勝利者であるイエス様を友達として歩んで行くのです。私たちがどんなに苦しい時、悲しい時、孤独な時、病気の時、これからのことが不安な時でも、イエス様は友達だと言ってくださることに耳を傾けましょう。神様は私たちに、7度を70倍するまでの十分な愛を示し、導いてくださることを心に留めましょう。  (要約まとめ:田内博)


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 11月5日
メッセージ要約 主題:「あなたの信仰がなくならないように」

           ルカの福音書22:31~34  三浦真信牧師

<31節>

 最後の過越しの食事の席で、イエスはシモン(ペテロの本名)の名を二回呼びました。サタンが麦をふるいにかけるように、ペテロの信仰を揺さぶるような試練に会わせるという緊迫した状況です。サタンがまずイスカリオテのユダの心に入り(3節)、イエスを売り渡すために出ていきます。3年半寝食を共にし、この方についていけばいずれ強固なイスラエルの王となるイエスの側近になれるという弟子たちの誤った希望が、十字架によって砕かれます。神の許しなしには、サタンは何もすることができません(ヨブ記1章~2章)。サタンは神の支配下にあります。でも今はサタンが働くことが許されています。それでもそのサタンの働きによって神のご計画が止められることはありません。サタンの巧妙さを侮(あなど)ってはいけませんが、神が味方であるならいたずらにサタンを恐れる必要もありません(ローマ8:31)。


<32節>

 イエスは、弟子たちの弱さをご存知でした。人間の側の信仰などあてになりません。「私の信仰」などは、大きな試練があればいつでも簡単に吹き飛んでしまいます。試練が続けば、ヨブの妻のように神を呪うことさえしかねないのです(ヨブ2:9~10)。イエスが「あなたの信仰がなくならないように」と祈ってくださるからこそ、私たちは何度も信仰を失いそうになってもまたイエスについていくことができるのです。

 ここの「わたしは」という言葉は、とても強い言葉です。わたしたちの信仰がなくならないように祈ってくださる「わたし」は、神の子キリストです。その方の強力なとりなしの祈りがあるからこそ、私たちは信じ続けるこができるのです。ですから力(りき)んで信仰する必要はありません。時には信仰的スランプに陥(おちい)ったり、自分では祈ることすらできなくなることもあります。でも信仰は、キリストによるものです。自分の中からは信仰も出てきません。だからキリストを見上げ、この方から信仰をいただきましょう。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないで」いましょう(へブル12:2)。何度目を離しても、また主イエスを見上げましょう。

 イエスは、私たちが「試練に会わないように」とは祈らず、「あなたの信仰がなくならないように」祈ってくださいました。信仰は、それほど大事なのです。最後までキリストを信じる者には、 栄光の救いの冠が用意されています。しかしキリストを最後まで拒むなら、そこには永遠の滅びがあるだけです。信仰を失ったら、大変なのです。この地でどれほど平穏無事に生きていてもそれは一時的なことで、永遠の平安にはつながりません。試練によって、信仰が精錬(せいれん)されていきます(第一ペテロ1:7)。主は、試練を通して信仰を訓練してくださいます。

 イエスのこのとりなしの祈りがあるからこそ、信仰を失いそうになってもまた立ち直らされます。だから「立ち直ったら、兄弟たちを力づけ」るのです。立ち直らされた者たちが、また信仰の試練に会っている人たちを力づけ、励まし祈るのです。互いに試練の中でも、主を見上げていこうと、励まし祈りあうのです。それがキリストのからだの交わりです。場所は離れていたとしても、互いに祈りあうことで交わりが生まれます。主イエスは、私たちがただ元気になって終わりではなく、また兄弟たちを力づける者となってほしいと願っておられます。主イエスが、信仰がなくならないように私たちのために祈ってくださったように、また私たちも立ち直ったら、兄弟姉妹の信仰のために祈りとりなし力づける者となることを、主は願っておられるのです。


<33~34節>

 シモン・ペテロは、イエスに「あなたの信仰がなくならにように」と言われて、「主よ。ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と確信をもって答えます。この時は本当にそう思っていたのでしょう。しかしペテロは同じ日のうちに、イエスを知らないと3度も答えることになります。拷問(ごうもん)にかけられたわけでも、脅(おど)されたわけでもありません。ただ「あなたもイエスと一緒だった」と言われただけで、「そんな人は知らない」と3度もきっぱりとイエスを否定したのです。人間の覚悟が、いかにいい加減なものか、変わるものかを思い知らされます。

 自分の弱さを知る中で、主から与えられる信仰に切り替えられていきます。ペテロも、自分の信仰がいかにいい加減なものか、人を恐れてそれまでの覚悟など簡単に変わってしまう弱いものかを知らされて、やがて聖霊を受けて大胆にキリストを伝える人に変えられていきます。 信仰は、すべてキリストにかかっています。キリストが、「あなたの信仰がなくならないように」と祈ってくださるから、何度でも立ち返ることができます。そして立ち直った時には、また兄弟たちを力づけ、互いに励ましあいながら歩むようにとの交わりを主は求めておられます。私たちが立ち直らされたのは、また誰かを力づけ、励ますためでもあるのです。

 信仰の創始者であり完成者は、イエス・キリストです。いよいよこの方から目を離さないでいま しょう。また互いに主イエスを見上げていくことを励まし、祈りあいましょう。信じ続けるために、祈りの友は必要です。独りで信仰生活を続けられるほど、私たちは強くありません。信仰がなくならないように今もとりなし祈ってくださる主イエスがおられます。その方が与えてくださる信仰で生きましょう。自分の頑張りや、力みでは続きません。そして力をいただいて、また兄弟姉妹を力づける者とならせていただきましょう。


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