(2017年11月)

 ・ 11月12日
 ・ 11月 5日
 




 11月12日
メッセージ要約 主題:「こころゆたかになるために」

           ヨハネの福音書15章15節 カイク加藤牧師(葛飾中央教会)

 「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネの福音書15章15節)  

 この時代は、多くのものが溢れていて、物質的には豊かな時代です。しかし心が豊かであるのかを考えると、そうではない時代です。 先日も9人の若い女性が殺される事件が起こり、アメリカでは銃により多数の人を殺害される事件があり、それらを起こす人達は心が豊かではないと思います。私たちが心は豊かだろうかと思う時に、心の中では人のものを欲しがったり、人を馬鹿と思ったり、意地悪をしたり、人を赦せない心があったり、ありがとうやごめんなさいを言えなかったり…、など心は豊かでないと思います。

 友達にいじめられたり、一人ぼっちだと思う時があるかもしれません。でも忘れてはいけません。イエス様が私たち一人一人に、「わたしはあなたの友達だよ」と言ってくださいます。

 私たちは、誰よりも勉強ができて優れた者になれば、あるいはお金を稼げたり、素晴らしい仕事についたりしたら、心が豊かになるのでしょうか。ルカの福音書12章の金持ちの農夫のたとえがあります。この裕福な農夫が豊作の時に、倉を建てて収穫物を納め、安心して楽しんで暮らしてゆこうと思いました。それに対して神様は、今晩お前の命が取られたら、その蓄えた物は誰のものとなるのかと言われた、というのです。神様を第一としなければ、いくら多くのものを得ても、何にもならないということです。イエス様の招きに従って、イエス様を友として歩むことが大切です。

 インドのある島で一人の女の子が、イエス様が友達だと宣教師から聞いて、それを単純に信じました。若くしてお嫁さんになって、洗濯や水汲みなどの辛い労働(家事)をしていても、いつもニコニコしていたそうです。その姿を見ていた多くの人は、やがてイエス様を信じるようになりました。

 私たちは一人では生きて行けません。この世の勝利者であるイエス様を友達として歩んで行くのです。私たちがどんなに苦しい時、悲しい時、孤独な時、病気の時、これからのことが不安な時でも、イエス様は友達だと言ってくださることに耳を傾けましょう。神様は私たちに、7度を70倍するまでの十分な愛を示し、導いてくださることを心に留めましょう。  (要約まとめ:田内博)


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 11月5日
メッセージ要約 主題:「あなたの信仰がなくならないように」

           ルカの福音書22:31~34  三浦真信牧師

<31節>

 最後の過越しの食事の席で、イエスはシモン(ペテロの本名)の名を二回呼びました。サタンが麦をふるいにかけるように、ペテロの信仰を揺さぶるような試練に会わせるという緊迫した状況です。サタンがまずイスカリオテのユダの心に入り(3節)、イエスを売り渡すために出ていきます。3年半寝食を共にし、この方についていけばいずれ強固なイスラエルの王となるイエスの側近になれるという弟子たちの誤った希望が、十字架によって砕かれます。神の許しなしには、サタンは何もすることができません(ヨブ記1章~2章)。サタンは神の支配下にあります。でも今はサタンが働くことが許されています。それでもそのサタンの働きによって神のご計画が止められることはありません。サタンの巧妙さを侮(あなど)ってはいけませんが、神が味方であるならいたずらにサタンを恐れる必要もありません(ローマ8:31)。


<32節>

 イエスは、弟子たちの弱さをご存知でした。人間の側の信仰などあてになりません。「私の信仰」などは、大きな試練があればいつでも簡単に吹き飛んでしまいます。試練が続けば、ヨブの妻のように神を呪うことさえしかねないのです(ヨブ2:9~10)。イエスが「あなたの信仰がなくならないように」と祈ってくださるからこそ、私たちは何度も信仰を失いそうになってもまたイエスについていくことができるのです。

 ここの「わたしは」という言葉は、とても強い言葉です。わたしたちの信仰がなくならないように祈ってくださる「わたし」は、神の子キリストです。その方の強力なとりなしの祈りがあるからこそ、私たちは信じ続けるこができるのです。ですから力(りき)んで信仰する必要はありません。時には信仰的スランプに陥(おちい)ったり、自分では祈ることすらできなくなることもあります。でも信仰は、キリストによるものです。自分の中からは信仰も出てきません。だからキリストを見上げ、この方から信仰をいただきましょう。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないで」いましょう(へブル12:2)。何度目を離しても、また主イエスを見上げましょう。

 イエスは、私たちが「試練に会わないように」とは祈らず、「あなたの信仰がなくならないように」祈ってくださいました。信仰は、それほど大事なのです。最後までキリストを信じる者には、 栄光の救いの冠が用意されています。しかしキリストを最後まで拒むなら、そこには永遠の滅びがあるだけです。信仰を失ったら、大変なのです。この地でどれほど平穏無事に生きていてもそれは一時的なことで、永遠の平安にはつながりません。試練によって、信仰が精錬(せいれん)されていきます(第一ペテロ1:7)。主は、試練を通して信仰を訓練してくださいます。

 イエスのこのとりなしの祈りがあるからこそ、信仰を失いそうになってもまた立ち直らされます。だから「立ち直ったら、兄弟たちを力づけ」るのです。立ち直らされた者たちが、また信仰の試練に会っている人たちを力づけ、励まし祈るのです。互いに試練の中でも、主を見上げていこうと、励まし祈りあうのです。それがキリストのからだの交わりです。場所は離れていたとしても、互いに祈りあうことで交わりが生まれます。主イエスは、私たちがただ元気になって終わりではなく、また兄弟たちを力づける者となってほしいと願っておられます。主イエスが、信仰がなくならないように私たちのために祈ってくださったように、また私たちも立ち直ったら、兄弟姉妹の信仰のために祈りとりなし力づける者となることを、主は願っておられるのです。


<33~34節>

 シモン・ペテロは、イエスに「あなたの信仰がなくならにように」と言われて、「主よ。ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と確信をもって答えます。この時は本当にそう思っていたのでしょう。しかしペテロは同じ日のうちに、イエスを知らないと3度も答えることになります。拷問(ごうもん)にかけられたわけでも、脅(おど)されたわけでもありません。ただ「あなたもイエスと一緒だった」と言われただけで、「そんな人は知らない」と3度もきっぱりとイエスを否定したのです。人間の覚悟が、いかにいい加減なものか、変わるものかを思い知らされます。

 自分の弱さを知る中で、主から与えられる信仰に切り替えられていきます。ペテロも、自分の信仰がいかにいい加減なものか、人を恐れてそれまでの覚悟など簡単に変わってしまう弱いものかを知らされて、やがて聖霊を受けて大胆にキリストを伝える人に変えられていきます。 信仰は、すべてキリストにかかっています。キリストが、「あなたの信仰がなくならないように」と祈ってくださるから、何度でも立ち返ることができます。そして立ち直った時には、また兄弟たちを力づけ、互いに励ましあいながら歩むようにとの交わりを主は求めておられます。私たちが立ち直らされたのは、また誰かを力づけ、励ますためでもあるのです。

 信仰の創始者であり完成者は、イエス・キリストです。いよいよこの方から目を離さないでいま しょう。また互いに主イエスを見上げていくことを励まし、祈りあいましょう。信じ続けるために、祈りの友は必要です。独りで信仰生活を続けられるほど、私たちは強くありません。信仰がなくならないように今もとりなし祈ってくださる主イエスがおられます。その方が与えてくださる信仰で生きましょう。自分の頑張りや、力みでは続きません。そして力をいただいて、また兄弟姉妹を力づける者とならせていただきましょう。


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