(2017年10月)

 ・ 10月29日
 ・ 10月22日
 ・ 10月15日
 ・ 10月 8日
 ・ 10月 1日
 




 10月29日
メッセージ要約 主題:「神の義の再発見」

      ローマ人への手紙3:20〜27 山口陽一師
                          東京基督教大学 大学院教授・神学研究科委員長
                           日本同盟基督教団 市川福音キリスト教会担任牧師

<はじめに>
  宗教改革500周年を記念するこの日の礼拝で皆さんと、恵み深い神を仰ぎ見ることは幸いです。ローマ人への手紙の主題は、「福音のうちには神の義が掲示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」(1:17)と掲げられていますが、これを語る中心的な個所を聞きたいと思います。


1.神の義の再発見(21節)

  「神の義」を私たちも再発見することが、今日のテーマです。 神の義は、律法と預言者、つまり旧約聖書によって証しされていました。不思議なことに、そうでありながら、神の義は律法とは別に、あるいは関わりなく(新改訳2017)示されたのです。

 パウロはここまで、律法による義を念入りに、これまでかという程述べてきました。その結論が、「律法によってはだれひとり神の前に義と認められない」(20)でした。これを受けて、21節の神の義は、律法を行うことによって認められる神の義ではありません。パウロは神によって目を開かれて、別の「神の義」を発見しました。神の義は、神の義(ただ)しさという意味です。パウロは、神の義の基準にかなうよう、律法を行うことに努めていました。しかし、「律法を通して生じるのは罪の意識」だけでした。けれでも、律法の行いによる義を追求することで、罪の意識に苛(さいな)まれたからこそ、「しかし、今や」と別次元の神の義が示されたのです。

 内村鑑三は、良心の鋭い者は必ずこの行き詰まりを経験する、アウグスティヌス、ルーテル、バンヤン、その他無数の人がそうであった、と言います。神の義に至るまでの修道士ルターは、罪の意識に苛(さいな)まれながら、如何(いか)にしたら恵み深い神の御顔を仰ぎ見ることができるかと、それだけを考えて律法の行いによる義を追求したと言われます。この真面目さが、律法によらない別の「神の義」を見出させたのです。パウロは律法の行いによらない神の義を発見し、ルターはこれを再発見したのです。


2.信仰による義(22節)

 その神の義とは、どのような「義」なのでしょうか。律法の行いによる義とは別のものとして立ち現れたのは「信仰による神の義」、しかも「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」でした。行いによってつかみ取ろうとする義ではなく、信仰によって受け取る義です。つかみ取ることは誰にもできないのですが、受け取ることは誰にでもできるのです。ギリシア語の表現が簡潔すぎて翻訳しにくい個所ですが、新改訳2017は、「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」 と訳しています。

 律法の行いによって義に到達しようとしても、誰ひとり神の義に到達できないにもかかわらず、人は自分の義を誇るのです。「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」(10:3) できもしないのに高ぶるのですから質(たち)が悪いのです。それに比べれば、正しく行き詰まることの方が、信じることによって与えられる義の入り口として、よほど良いのです。

 ユダヤ人も異邦人もない、男も女も老いも若きも、能力も財力も、血筋も社会的地位も関係なく、「すべての信じる人に与えられ、何の差別もない」神の義が、鮮やかに用意されているのです。


3.イエス・キリストの義(23〜26節)

 信仰による義は、イエス・キリストの義です。イエス・キリストからいただくことしか、得ることのできない義なのです。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23〜24節)

 すべての人は、罪を犯しているので、神の栄光に達しません。神の栄光は至高—高いところにあり、手を伸ばしてもジャンプしても、誰一人神の栄光に達しません。本来は決して手が届かないのに、神の栄光である方が降りて来てくださるのですから、誰でも神の栄光に達することができます。神の義は代価を払って買おうとしても、それを払える人は誰一人いません。しかし、イエス・キリストが代価を払ってくださるのですから、誰でも神の義を得られます。

 新改訳2017の25節前半は、「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥(なだ)めのささげ物として公に示されました。」となって、わかりやすくなりました。贖(あがな)いは代価をもって買い取ることですが、宥(なだ)めるのは、神の怒りです。御子イエス・キリストが十字架で流して下さった血は、単に代価を払って買い取るだけでなく、神の怒りを宥(なだ)めて下さるものでした。

 東京基督教大学初代学長の丸山忠孝先生は、その著書の中でルターが聖書研究により新しい福音理解に導かれた経緯を記しています。「その核心は『神の義』の解釈でした。従来のカトリック神学は、『神の義』の『の』を主格的に神が持っておられる義、すなわち『神が義であり、それにより罪人を裁く義』と理解しました。しかしルターは、この『の』を目的格的に解釈し、『神が不義である罪人を義と認める義』と理解しました。もはや罪人は善行を積んで義人にならなくて良いのです。そのままの状態で、神の義認の恵みを信仰によって受ければ十分です。信仰義認の教理に到達したルターは、ついに恵み深い神を発見!」

 パウロが発見した神の義を、ルターは罪との格闘の中で、聖書の中に再発見しました。これこそ、「しかし、今や」「今の時に」と言われるキリストの福音の開かれた時代です。

 神の義は、鮮やかに現れました。神ご自身の義が、イエスを信じる者の義と認められるという福音です。


4.キリストの義を誇る信仰(27節)

 行いによる義は、誰も到達できないにもかかわらず、人を誇らせるものです。自分自身の義を立てようとして誇る、これが行いの原理です。しかし、信仰の原理、信仰による義は、自分自身を誇る生き方を取り除きます。イエス・キリストの義をいただくことは、人の功績ではなく、神の恵みだからです。私たちではなく、キリストが宥(なだ)めの供え物となって私たちを贖(あがな)って下さったのですから、私たちが誇るとすれば、キリストのほかには誇りはないのです。キリストは私たちの唯一の慰め、生きる時死ぬ時に唯一依り頼むお方です。神の忍耐により、神から離れ、的外れな生き方をしていた異邦人なる日本人にも差別なく与えられた神の義、ありがたいというほかありません。信仰義人論は安価な恵みではなく、本当に重い恵みを信仰によって誰でもいただくことができるものです。

 神の義の再発見は、罪の奴隷を本当に自由にします。自分を誇る奴隷の生き方から、キリストを誇る自由な人に作り変えられる、これが福音です。私たちは神の義により、「信仰に始まり信仰に進ませる」恵みに生きて行きましょう。 (要約まとめ:田内博)


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 10月22日
メッセージ要約 主題:「神よ、私を強めてください」

           士師記16章 三浦真信牧師

<1~3節>

 ペリシテ人たちは、これまで散々サムソンに痛い目にあわされて来たので、サムソンがペリシテ人の領地であるガザの遊女のもとにいることを聞き、殺そうと待ち伏せしました。サムソンが遊女のもとに朝までいるだろうと鳴りを潜めていましたが、サムソンは真夜中に起き上がり、ガザの町の門のとびらと二本の門柱を引き抜き、肩に担いで約64キロ離れたヘブロンに面する山の頂まで運んでいきました。ペリシテ人たちはあっけにとられて、この時は何もできませんでした。


<4~5節>

 ガザの遊女とは、性的欲望を満たすだけの関係でしたが、その後デリラという女性を本気で好きになります。ペリシテ人の領主たちがサムソンとデリラの関係を知り、デリラにサムソンの力がどこにあるかを聞き出すようにと依頼します。その報酬として、領主一人ひとりが銀1,100枚(当時の労働者の年収の100倍以上)ずつデリラに渡すことを約束します。デリラはお金に目がくらみその依頼を受け、サムソンを裏切ります。


<6~22節>

 デリラは、サムソンに力の秘密を問いかけますが、3度嘘をつかれます。しかし彼女が本当のことを語らないサムソンを責め続け、サムソンは死ぬほど辛くなり、ついに自分の心を彼女に明かしました。サムソンが本心を明かしたことを知り、デリラはペリシテ人の領主たちを呼び、力が弱くなったサムソンは彼らに捕らえられガザに連れていかれます。


<23~31節>

 サムソンを捕らえたペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンの勝利だと盛大ないけにえをささげ、祝宴に目が見えなくなったサムソンを呼び出し、からかいます。サムソンはここで、真実な心で神に向かい祈り叫びました。愛するデリラに裏切られ、ペリシテ人に捕らえられ、みじめな生活を余儀なくされる中で、サムソンはこれまでの自分の力が神にあったことをとことん知らされます。そしてへりくだって、神に祈り求めました。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ。この一時でも、私を強めてください」と心から主に祈ります。主なる神が自分を強めてくださる方だと認めて、謙虚に神に呼ばわりました。神はそのサムソンの祈りに答え、もう一度サムソンに力を与えて、ペリシテ人に大打撃を与えます。こうして主はサムソンを20年間、イスラエルをペリシテ人から守る士師として用いられたのです。  


 聖書は、人間の弱さや失敗もそのまま記しています。その歩みがもたらす悪影響や痛みもそのままに記しながら、私たちがどのように生きるべきかを問いかけます。サムソンの問題点としては、以下のことが挙げられます。


 ① サムソンはナジル人として聖別された者であることを自覚していなかった

 出生前に両親に主の使いから一方的に言われたとはいえ、サムソンはナジル人として主に生涯ささげられた人です(13:3~5)。神は、そのようにサムソンが生きることを求めておられます。また私たちも、キリストの一方的な恵みにより救われ、神の者とされました。神は私たちを通して、神の民として生きることのすばらしさ、神の愛とご計画の深さを人々に知らせるように、私たちを召してくださいました。そのことを自覚して生きるなら、はずれた時には悔い改め、また再び神の民として生きたいという祈り求めが起きてきます。キリストによって罪きよめられ、神の民とされたことを自覚して生きましょう。

 ② サムソンは自分の弱さを自覚していなかった

 サムソンは、自分が女性に対して弱いものであること、また人格的にも未熟さがあることを十分自覚していませんでした。自分の弱さを認めることは、強みです。自覚していることで気をつけたり、その弱さをもって神に助けを求めたり、周囲の人に祈りとりなしていただくことができます。自分の弱い部分を自覚して神を求めるなら、そこで神の力が現れる恵みを体験できます。

 ③ サムソンは自分に与えられた賜物を理解し感謝することが不十分だった

 サムソンの怪力は、イスラエルを苦しめるペリシテ人との戦いのために神が与えられた賜物でした。しかし彼はその力を自分の欲のため、また怒りに任せて用いていきました。賜物は、それがどんなに小さなものに思えても、神に感謝して神のために用いていくものです。そこに祝福があります。賜物を自分の物差しで過小評価せず、また私視せず、感謝して主のために忠実に用いていきましょう。  神の喜ばれない生き方をした結果、痛みを負うことはあります。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ6:8)。その痛みを通して、悔い改めて立ち返るようにと御霊は促されます。でも同時に、弱さがあり、ある時は欲のまま突っ走って痛い思いをするような失敗もあるけれど、そのような者をも神はご自身の計画のために用いてくださいます。  

 また私たちが様々な罪の痛みを経験したり、苦難の中で自分の弱さをとことん知らされる中で、いよいよ主により頼み、主に祈り叫ぶ者と変えられます。サムソンは、デリラに対する情で何もかも見えなくなってしまい、デリラに裏切られ、ペリシテ人のもとで辛い時を過ごします。しかしその中で、もう一度神を心から呼び求める信仰が与えられていきました。  

 「ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください」という真実な祈りをささげています。「主が自分から去られても(20節)仕方がないような罪を犯しましたが、今ひとときだけでも憐れんで、私をあなたの力で強めてください」とのサムソンの祈りに主は答えてくださり、再び力を与えてくださいました。サムソンは弱くされて初めて、これまで与えられていた力が神からのものであったことを知りました。調子のよい時には、気づきもせず感謝することもなかった彼の怪力は、全く力がなくなって捕らえられ惨めな思いをした牢獄生活を通して、実はすべて主から与えられたものであったことを認め、もう一度神にその力を求めたのです。この信仰によって、サムソンは信仰の人として名を掲げられています(へブル11:32)。  

 弱くされることは恵みです。そのことで心貧しくされ、「神によって、私たちは力ある働き」をすることができること(詩篇108:13)、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と言われる主にへりくだってより頼む者とされます。主の力を認め、与えられたものを感謝しつつ主のために用いましょう。日々「神よ、私を強めてください」と祈り求めましょう。主はわが力です!


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 10月15日
メッセージ要約 主題:「仕える喜び」

           ルカの福音書22:24~30 三浦真信牧師

<24節>

 イエスと弟子たちとの最後の食事の席で、弟子たちの中で「この中でだれが一番偉いだろうか」という論議が起きました。おそらく最後の晩餐で、だれがイエスの隣の良い席に座るかということで、そのような論議に発展したのでしょう。すべての人の罪の身代わりにイエスが死なれるという時に、正反対の論議でした。  

 ここは原文が「だれがより偉いか」という、比較級になっています。人が集まれば、このような比べあいが起きてきます。自分が、人より上であるように見せようとする気持ちが働いたり、自分よりも何かの点で優れている人、あるいは良い環境にいる人がいると、ねたんだり劣等感を持ったりします。ねたみや劣等感も、人より上になりたいという思いから生じてきます。また上に立つことで、自分の思い通りに人を動かそうとしたり、自分の欲求を実現しようとする場合もあります。  

 イエスは、これから苦しみの果てにご自身が殺されることを、弟子たちに何度も予告しました。しかし弟子たちはそのことを真剣にまだ受けとめていません。相変わらず、イエスがローマの統治からイスラエルを解放して、一大王国を築く方と見ています。その時に、いかに自分たちが良い地位に就(つ)くかという政権争いを、ここで始めているのです。  

 イエスはこの論議を聞いて、大切なメッセージを弟子たちに残します。それは彼らがやがて初代教会において指導者として立つときに、彼らがいつも思い起こすことになる大切な内容です。


<25~26節>

 人間社会における王たちの多くは人々を支配し、また守護者(神々や皇帝の尊称)と呼ばれ、人々から崇(あが)められます。でも「あなたがたは、それではいけません」と、とても強い言葉でイエスは命じておられます。キリストの弟子であるあなたがたは、断じてそうであってはならないと言われます。神の国に籍を置く者たちにとっては、全く目指す方向が違うのです。人を支配したり、人から崇(あが)められるようになってはいけないのです。人々を支配したい人、人から崇(あが)められたい人は、リーダーになってはいけないのです。自分の思い通りにするため、自分の欲求を満たすために上に立ちたい人は、治める人になってはいけないのです。やがて聖霊が注がれ教会が誕生する時に、イエスの弟子たちが使徒として立つために、「あなたがたは、異邦人の王のようであってはならない」と強い口調で命じられたのです。  

 「あなたがたの間で一番偉い人」という表現は、原文では「より優れた人、より偉大な人」となっています。「一番の若い人のようになりなさい」とは、「一番年の若い人が年上の人に良い席を譲るような心でいなさい」ということです。一番若い人が、末席にすわるような気持ちでいつもいるようにと命じられています(偉くなるために末席争いをするのも違います)。  「治める人は仕える人のようでありなさい」と、地上の王のように支配したり崇(あが)められる方向ではなく、「仕える人のよう」になることを求めましょう。「仕える」は英語で「serve」です。「servant(奴隷)」と同じ語源の言葉です。奴隷が主人に仕えるような仕え方です(エペソ6:5~7)。「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく」「キリストのしもべとして」「人にではなく主に仕えるように」仕えていくのです。「心から神のみこころを行いたい」という動機が根底にある仕え方です。


<27節>

 イエスは「わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」と言われました。これは、この食事の席でイエスが弟子たちの足をお洗いになったことを直接には指しています(ヨハネの福音書13:4~10)。この当時、主人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。それをイエスが弟子たちになさったのです。それだけでなく、私たちの罪の汚れを洗い流すために、イエスは十字架にかかって死なれました。今も私たちの罪を洗いきよめ続けてくださっています。  

 イエスはキリストの弟子たちが、互いの足を引っ張り合うのではなく、互いの足を洗い合うように仕えあっていくようにと模範を見せてくださいました。それが神の国における関係なのです。人を支配したり、人から崇(あが)められることを求める肉の性質は、たえず御霊に砕いていただきましょう。ねたみや劣等感も、肉からくるものです。それを生かしていくことは、破滅でしかありません。イエスが弟子たちの足を洗ってくださった方向を、互いに求めていきましょう。御霊に導いていただきましょう。


<28~30節>

 イエスは、試練の時にも弟子たちがついて来てくれたことを喜んでくださいました。失敗だらけの弟子たちでしたが、「あなたがたこそ、わたしについて来てくれた人」だと、評価してくださっているのです。最後までイエスについていきましょう。大事なのは、失敗しないこと、倒れないことではなく、どこまでもイエスについていくことです。失敗しても、倒れても、つまずいてもいいのです。  

 最後までイエスについていく者たちに、神は王権を与えてくださいます。それは地上おいてではなく、やがてキリスト再臨の時にくる神の国においてです。「イスラエルの12部族」とは、霊的イスラエルを指します。神の国をさばく(治める)者としてくださるのです。そこで神の国におけるキリストとの食事を共にすることになります。その食卓では、「誰が一番偉いか」という論議は起きません。このような論議が起きるのは、地上においてまだ私たちの中に肉(罪の残骸(ざんがい))があるからです。すべてが新しくなる神の国では、それらが取り除かれるので、比べ合いも起きません。偉大な神が眼前におられ、私たちはみな同じ神の子となるのです。  


 「仕える人のようでありなさい」というのは、奴隷根性になることや、卑屈(ひくつ)になることではありません。「仕える」とは、イエスについていくことです。イエスのおられるところに身を置くことです(ヨハネの福音書12:26)。ですから、いつも主イエスの声を聴いていく必要があります。自分の勝手な判断で「これこそが仕えることだ」と決めるものではありません。自分の基準で仕えようとすると、「私はこんなに仕えているのに、あの人は全然仕えていない」と、傲慢(ごうまん)になり人をさばくようになります。不満だらけになり、自分だけが損をしているかのように卑屈(ひくつ)になっていきます。それは本当に仕えているのではなく、仕えている自分に酔っているだけです。本当に仕えるときには、そこにイエスがおられます。イエスがおられるところに身を置くことが仕えることですから、その時にはどのようなことでも仕えることで喜びがあります。むしろ仕えることが感謝になるのです。仕えることに、感謝と喜びがあるでしょうか?卑屈(ひくつ)な思いで不満だらけのまま仕えても、主は決して喜ばれません。まずイエスがどのように私たちに仕えてくださったかを、よく知りましょう。そして「仕える喜び」を御霊に与えていただきましょう。                                   


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 10月8日
メッセージ要約 主題:「新しい契約で生きる」

           ルカの福音書22:14~23 三浦真信牧師

<14~15節>

 先にペテロとヨハネが遣わされて、最後の晩餐(ばんさん)(過越(すぎこし)の食事)の準備が整いました。日没後イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスと一緒に席に着きました。ここでは「弟子たち」ではなく「使徒たち」となっています。3年以上にわたるイエスからの訓練を終えて、弟子たちが使徒たちとして宣教に出ていく日が近いことを暗示しているかのようです。  

 イエスは席に着くと開口一番「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われました。これから十字架の苦しみを受けるイエスは、その前夜に愛する弟子たちと共に食事をすることを切望していたのです。ここは「望みに望んだ」と、同じ言葉を繰り返して強調しています。  

 「過越(すぎこし)の食事」(原語は「パスカ」)と「苦しみを受ける」(原語は「パスコー」)は、同じ語源の言葉です。イスラエルがエジプトを脱出する直前に、神のみ使いがエジプトの初子を打ちました。しかし子羊の血を門柱とかもいにつけたイスラエルの初子はみな救われました。イスラエルはこの後、エジプトを脱出します。その時の主のみわざを覚えて過越の祭りが続けられてきましたが、実はその祭りでささげられ食されてきた過越の羊こそ、十字架でやがて殺されるイエス・キリストを予表していたのです。ですから十字架の苦しみを受ける(パスコー)前に、その過越の食事(パスカ)を弟子たちと共にすることは、特別な意味があったのです。


<16~19節>

 イエスは、弟子たちと地上で過越の食事をするのは、これが最後であり、次はイエスの再臨の時、神の国において完全に過越が成就する時であることを宣言します。  


 イエスがパンを「取り」「裂き」「与えた」という行為は、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人々を満腹にした奇跡を思い起こさせます(9:16)。その奇跡を通して、イエスはご自身が旧約で預言されたメシヤ、救い主であることを人々に示しました。そして今、最後の晩餐(ばんさん)においてはこの行為において、イエスが十字架の死によって新しい契約をもたらす方であることを示しています。またイエスが復活されてエマオへの途上で二人の弟子に現れた時に、やはり同じことをされました(24:30~35)。その時には復活の主として、イエスの十字架で新しい契約が完全に成就したことを示されたのです。  

 「わたしを覚えてこれをしなさい」という主イエスのご命令に従って、私たちは聖餐(せいさん)のパンを通してキリストのからだが私たちの罪のために引き裂かれたことを覚え、またキリストご自身を覚えるのです。そしてキリストの十字架によって、信じる者たちの罪が赦されるという新しい契約を、私たちは礼拝ごとに、またたえず思い起こして生きるのです。


<20節>

 ぶどうの杯を通して、十字架で流されたキリストの血潮によって罪をきよめられるという新しい契約を覚えます。パンを食べ、ぶどう酒(液)を飲むように、キリストを食べ、キリストの血を飲むようにとイエスは命じました(ヨハネの福音書6:51~58)。つまりキリストで生きるのです。キリストを通して与えられた新しい契約で生きるのです。私たちの行い、歩みは不完全です。悔い改めさえも、完璧にはできません。自分の不完全さ・弱さがなくなることで救われようとしたら、永遠に救われません。どこまでも救いはキリストにあります。キリストを信じ、キリストの十字架によって罪が赦されることを信じる信仰によって、私たちは完全な者とされるのです(マタイ5:48)。完全な救いを成し遂げてくださった、罪なき完全な方キリストを信じる者を、神は完全な者と見なしてくださるのです。キリストを信じることが、律法を完成させるのです。


<21~23節>

 この最後の晩餐(ばんさん)には、イエスを裏切るイスカリオテのユダも招かれていました。イエスは、何とかユダが立ち返るように促しておられます。悔い改めて、イエスに「ごめんなさい、あなたを信じることができず、またお金に目がくらみ、あなたを売り渡そうとしていました」と悔い改めてイエスに立ち返ることを最後まで願ってくださっていたのです。  


 イエスは、最後の晩餐(ばんさん)でご自身が過越(すぎこし)の羊として死なれることを弟子たちに示されました。そしてキリストを覚え、キリストで生きるようにと、パンとぶどう酒を弟子たちに与えました。 今私たちは古い契約ではなく、新しい契約で生きるのです。律法を守ることによって救われようとするなら、律法を100パーセント完全に行わなければなりません。人間の力では完全にはなれません。罪のない完全な方、そして人の罪を完全にきよめることができる十字架のキリストを信じるなら、神は完全と見なしてくださるのです。ですからたえずキリストを見上げましょう。古い罪の残骸を見るときに、十字架のキリストを覚えましょう。罪なき神の子キリストが、存在丸ごと十字架で身をささげてくださいました。原罪で丸ごと覆(おお)われた私たちを丸ごと根底から救うため、神の子キリストは人となって十字架で死なれたのです。そして死からの復活を通して、この方を信じる者は完全に罪から解放されることを示してくださいました。  

 今キリストによる新しい契約で生きているでしょうか?まだ行いで認められ、善い行いによって救われようとしていませんか?キリストを信じることが、良い行いでありすべてのわざです(ヨハネの福音書6:29)。新しい契約で生きるなら、罪赦された喜びがあふれ、キリストの喜ばれる生き方をしたいという求めが主から与えられるのです。救われるために善い行いをするというのではなく、救われて感謝があふれキリストの道を生きたいという願いが起きてくるのです。キリストを信じて救われたのですから、これからもキリストで生きましょう。新しい契約で生きましょう。十字架のキリストをたえず見上げ、キリストで生きましょう。


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 10月1日
メッセージ要約 主題:「キリストの言葉が内に住んで」

           コロサイ3:15~17  矢島志朗・KGK副総主事

<コロサイ書前半〜中盤>

 新約聖書の書簡では、間違った教えに気をつけるように、多くの文量を割いて教えられています。コロサイの教会において、割礼を受けなければ救われないというユダヤ教の習慣、天使礼拝、不自然な禁欲主義、天使の霊の力が人間の運命を支配する、などの異なる教えがはびこっていました。そのため、キリストこそが創造者、支配者であり、教会の頭、真の神、唯一の仲保者、真の知恵・知識の源なのだとコロサイ書は伝えています。1章と2章では、神が素晴らしい救いを与えて下さったこと、私たちは神の支配の中に移されていること、バプテスマによってキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらされていること(コロサイ2:12)などが記されています。3章に入って、そのようによみがえらされた者の歩みとして、地上にあるものを求めず、天にあるものを思いなさいと勧められています(3:1〜2)。常にキリストを意識し、常にキリストを心に思い浮かべていくように、ということが中心になっています。  

 3章12節からは、人間関係についての勧めとなります。キリスト者は神に選ばれた、聖なる愛された者なのであり、そこで深い同情心、慈愛(じあい)、謙遜(けんそん)、柔和、寛容を身につけるように(12)、また、互いに忍び合い、赦し合うこと、主が無代価で赦されたことから互いに赦し合うことが、勧められています(13)。愛を着けなさい、愛は結びの帯として完全なものだと語られています(14)。結びの帯とは、一切のものを理想的な調和の中に完全に結びつけていくものなのです。


<キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい(15)>

 この文章では、運動競技のアンパイア、レフェリーにあたる原語が使われています。キリストの平和があるかどうかが私たちの判断基準であり、またそれが私たちの召された目的でもあります。生きる意味は何なのか、何のために生きるのかは人類の普遍的な課題ですが、クリスチャンでもそれが明確となっていない場合もあります。  

 私たちはキリストの平和が心を支配するために召されました。まず私たち自身が神様と和解して、心が安らぐ必要があります。また人間同士の和解を求め、置かれた場所で平和をもたらす生き方をしていくのです。人はそれぞれ個性や考え方の違いあることを認め合って、キリストにあっては一つであることを感謝し、喜び合うように勧められます。  

 また、「感謝の心を持つ人になりなさい」と、さらりと書かれていますが、奥深いことばです。ある若い人は、父親から、苦しい時にこそ感謝することを教えられたと話していました。また、感謝することは信仰の最大の表現であるということばもあります。感謝をすることで、キリストの平和が心を支配するということが、より確かになっていくのだと思います。  

 ダニエルは異教の地で、王に仕える大臣の地位にいましたが、周りの人の妬(ねた)みをかい、謀略(ぼうりゃく)を仕掛けられました。王以外の神に祈願するなら獅子(しし)の穴へ投げ込まれる、との法令が制定されたと聞いた時、ダニエルはいつもと同じようにひざまずいて神に感謝の祈りを捧げました(ダニエル6:10)。自分の命が脅かされる苦境の中で、心は神に向かい、感謝した結果、ダニエルは獅子(しし)の穴の中で守られていきました。心を神様に向け続け、感謝の気持ちを持つことが大切で、その時に平和を与えられ、神様からの導きを受けるのです。


<キリストのことばを豊かに住まわせる>

 16節は、「キリストのことばを豊かに住まわせる」、「知恵を尽くして互いに教え、戒める」、「感謝に溢(あふ)れて心から神に向かって歌う」と多くの内容を含むものとなっています。これらのことが成されるところにキリストの平和が実現していく。これは私たちが行なっている礼拝、交わり、讃美ではないかと思います。  

 みことばを豊かに住まわせなさいとありますが、みことばの力がどれほどのものであるかは、詩篇やヘブル書に書かれています。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える」(詩篇119:130) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄(こつずい)の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4:12)。みことばは私たちを育て、聖なるものとする力を持っているのです。  

 みことばを豊かに住まわせるは、ある訳では「キリストのことばをあなた方の心情と知性の中に宿らせなさい」となっています。みことばをとても深く受け取っていくということです。信仰生活では、聖句暗唱やデボーション、分かち合いが勧めらます。礼拝でのみことばを聞いて、交わりの中でそれを分かち合うことにより、信仰生活の上で大きな相乗効果がもたらされると感じています。所属教会でも礼拝説教の分かち合いを青年たちと行なっており、聞き漏(も)らしを防ぐ意味もありますが、お互いに励まされ、力を得る経験をしているのです。

 福音は、本当に理解した時に勢いをもって広がるものです(1:6)。心情と理性をもって、深い所でみことばを受け取り、また、交わりの中や共に讃美する中で、みことばの理解が深められていくのです。すうっと当たり前のように読んでいた聖書のことばに深くとどめられる。私たちを生まれ変わらせ、活かしてくださる神のことばによって、私たちは生きていくのです。


<すべて主イエスの名によってなす(17)>

 ある解説では、主の御人格に依(よ)り頼んで、の意味があると説明しています。神様を忘れることの多い私たちですが、上にあるものを求める、その具体的なあり方として、この「主イエスの名によって全てのことをなす」ことが勧められているのです。学生たちは、どんな状況でも、今ここに遣わされたのは神様だという信仰を教えられて、卒業してからそれぞれの職場や生活の場所で、主イエスの名による歩みを実践していきます。  

 私自身も、大学を卒業してしばらくは、恐れながら仕事をしている時期がありました。そんな時にデボーションで、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)のみことばを聞いて、そこから力が湧いて仕事に当たれるようになった経験もあります。    


 生活の只中でみことばが心に響いて、そのみことばへの応答として、すべて主イエスの名によってなすように勧められているのです。みことばを心にとめながら、主に依(よ)り頼んで生きていくのです。みことばの力は強く、私たちを本当に生かしてくださるものです。私たちが、キリストの平和に支配され、感謝する心を持ち、キリストのことばを心に住まわせ、そして全てのことを主イエスの名によってすることができるように願います。

  (要約まとめ:田内博)


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