(2017年10月)

 ・ 10月 8日
 ・ 10月 1日
 




 10月8日
メッセージ要約 主題:「新しい契約で生きる」

           ルカの福音書22:14~23 三浦真信牧師

<14~15節>

 先にペテロとヨハネが遣わされて、最後の晩餐(ばんさん)(過越(すぎこし)の食事)の準備が整いました。日没後イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスと一緒に席に着きました。ここでは「弟子たち」ではなく「使徒たち」となっています。3年以上にわたるイエスからの訓練を終えて、弟子たちが使徒たちとして宣教に出ていく日が近いことを暗示しているかのようです。  

 イエスは席に着くと開口一番「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われました。これから十字架の苦しみを受けるイエスは、その前夜に愛する弟子たちと共に食事をすることを切望していたのです。ここは「望みに望んだ」と、同じ言葉を繰り返して強調しています。  

 「過越(すぎこし)の食事」(原語は「パスカ」)と「苦しみを受ける」(原語は「パスコー」)は、同じ語源の言葉です。イスラエルがエジプトを脱出する直前に、神のみ使いがエジプトの初子を打ちました。しかし子羊の血を門柱とかもいにつけたイスラエルの初子はみな救われました。イスラエルはこの後、エジプトを脱出します。その時の主のみわざを覚えて過越の祭りが続けられてきましたが、実はその祭りでささげられ食されてきた過越の羊こそ、十字架でやがて殺されるイエス・キリストを予表していたのです。ですから十字架の苦しみを受ける(パスコー)前に、その過越の食事(パスカ)を弟子たちと共にすることは、特別な意味があったのです。


<16~19節>

 イエスは、弟子たちと地上で過越の食事をするのは、これが最後であり、次はイエスの再臨の時、神の国において完全に過越が成就する時であることを宣言します。  


 イエスがパンを「取り」「裂き」「与えた」という行為は、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人々を満腹にした奇跡を思い起こさせます(9:16)。その奇跡を通して、イエスはご自身が旧約で預言されたメシヤ、救い主であることを人々に示しました。そして今、最後の晩餐(ばんさん)においてはこの行為において、イエスが十字架の死によって新しい契約をもたらす方であることを示しています。またイエスが復活されてエマオへの途上で二人の弟子に現れた時に、やはり同じことをされました(24:30~35)。その時には復活の主として、イエスの十字架で新しい契約が完全に成就したことを示されたのです。  

 「わたしを覚えてこれをしなさい」という主イエスのご命令に従って、私たちは聖餐(せいさん)のパンを通してキリストのからだが私たちの罪のために引き裂かれたことを覚え、またキリストご自身を覚えるのです。そしてキリストの十字架によって、信じる者たちの罪が赦されるという新しい契約を、私たちは礼拝ごとに、またたえず思い起こして生きるのです。


<20節>

 ぶどうの杯を通して、十字架で流されたキリストの血潮によって罪をきよめられるという新しい契約を覚えます。パンを食べ、ぶどう酒(液)を飲むように、キリストを食べ、キリストの血を飲むようにとイエスは命じました(ヨハネの福音書6:51~58)。つまりキリストで生きるのです。キリストを通して与えられた新しい契約で生きるのです。私たちの行い、歩みは不完全です。悔い改めさえも、完璧にはできません。自分の不完全さ・弱さがなくなることで救われようとしたら、永遠に救われません。どこまでも救いはキリストにあります。キリストを信じ、キリストの十字架によって罪が赦されることを信じる信仰によって、私たちは完全な者とされるのです(マタイ5:48)。完全な救いを成し遂げてくださった、罪なき完全な方キリストを信じる者を、神は完全な者と見なしてくださるのです。キリストを信じることが、律法を完成させるのです。


<21~23節>

 この最後の晩餐(ばんさん)には、イエスを裏切るイスカリオテのユダも招かれていました。イエスは、何とかユダが立ち返るように促しておられます。悔い改めて、イエスに「ごめんなさい、あなたを信じることができず、またお金に目がくらみ、あなたを売り渡そうとしていました」と悔い改めてイエスに立ち返ることを最後まで願ってくださっていたのです。  


 イエスは、最後の晩餐(ばんさん)でご自身が過越(すぎこし)の羊として死なれることを弟子たちに示されました。そしてキリストを覚え、キリストで生きるようにと、パンとぶどう酒を弟子たちに与えました。 今私たちは古い契約ではなく、新しい契約で生きるのです。律法を守ることによって救われようとするなら、律法を100パーセント完全に行わなければなりません。人間の力では完全にはなれません。罪のない完全な方、そして人の罪を完全にきよめることができる十字架のキリストを信じるなら、神は完全と見なしてくださるのです。ですからたえずキリストを見上げましょう。古い罪の残骸を見るときに、十字架のキリストを覚えましょう。罪なき神の子キリストが、存在丸ごと十字架で身をささげてくださいました。原罪で丸ごと覆(おお)われた私たちを丸ごと根底から救うため、神の子キリストは人となって十字架で死なれたのです。そして死からの復活を通して、この方を信じる者は完全に罪から解放されることを示してくださいました。  

 今キリストによる新しい契約で生きているでしょうか?まだ行いで認められ、善い行いによって救われようとしていませんか?キリストを信じることが、良い行いでありすべてのわざです(ヨハネの福音書6:29)。新しい契約で生きるなら、罪赦された喜びがあふれ、キリストの喜ばれる生き方をしたいという求めが主から与えられるのです。救われるために善い行いをするというのではなく、救われて感謝があふれキリストの道を生きたいという願いが起きてくるのです。キリストを信じて救われたのですから、これからもキリストで生きましょう。新しい契約で生きましょう。十字架のキリストをたえず見上げ、キリストで生きましょう。


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 10月1日
メッセージ要約 主題:「キリストの言葉が内に住んで」

           コロサイ3:15~17  矢島志朗・KGK副総主事

<コロサイ書前半〜中盤>

 新約聖書の書簡では、間違った教えに気をつけるように、多くの文量を割いて教えられています。コロサイの教会において、割礼を受けなければ救われないというユダヤ教の習慣、天使礼拝、不自然な禁欲主義、天使の霊の力が人間の運命を支配する、などの異なる教えがはびこっていました。そのため、キリストこそが創造者、支配者であり、教会の頭、真の神、唯一の仲保者、真の知恵・知識の源なのだとコロサイ書は伝えています。1章と2章では、神が素晴らしい救いを与えて下さったこと、私たちは神の支配の中に移されていること、バプテスマによってキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらされていること(コロサイ2:12)などが記されています。3章に入って、そのようによみがえらされた者の歩みとして、地上にあるものを求めず、天にあるものを思いなさいと勧められています(3:1〜2)。常にキリストを意識し、常にキリストを心に思い浮かべていくように、ということが中心になっています。  

 3章12節からは、人間関係についての勧めとなります。キリスト者は神に選ばれた、聖なる愛された者なのであり、そこで深い同情心、慈愛(じあい)、謙遜(けんそん)、柔和、寛容を身につけるように(12)、また、互いに忍び合い、赦し合うこと、主が無代価で赦されたことから互いに赦し合うことが、勧められています(13)。愛を着けなさい、愛は結びの帯として完全なものだと語られています(14)。結びの帯とは、一切のものを理想的な調和の中に完全に結びつけていくものなのです。


<キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい(15)>

 この文章では、運動競技のアンパイア、レフェリーにあたる原語が使われています。キリストの平和があるかどうかが私たちの判断基準であり、またそれが私たちの召された目的でもあります。生きる意味は何なのか、何のために生きるのかは人類の普遍的な課題ですが、クリスチャンでもそれが明確となっていない場合もあります。  

 私たちはキリストの平和が心を支配するために召されました。まず私たち自身が神様と和解して、心が安らぐ必要があります。また人間同士の和解を求め、置かれた場所で平和をもたらす生き方をしていくのです。人はそれぞれ個性や考え方の違いあることを認め合って、キリストにあっては一つであることを感謝し、喜び合うように勧められます。  

 また、「感謝の心を持つ人になりなさい」と、さらりと書かれていますが、奥深いことばです。ある若い人は、父親から、苦しい時にこそ感謝することを教えられたと話していました。また、感謝することは信仰の最大の表現であるということばもあります。感謝をすることで、キリストの平和が心を支配するということが、より確かになっていくのだと思います。  

 ダニエルは異教の地で、王に仕える大臣の地位にいましたが、周りの人の妬(ねた)みをかい、謀略(ぼうりゃく)を仕掛けられました。王以外の神に祈願するなら獅子(しし)の穴へ投げ込まれる、との法令が制定されたと聞いた時、ダニエルはいつもと同じようにひざまずいて神に感謝の祈りを捧げました(ダニエル6:10)。自分の命が脅かされる苦境の中で、心は神に向かい、感謝した結果、ダニエルは獅子(しし)の穴の中で守られていきました。心を神様に向け続け、感謝の気持ちを持つことが大切で、その時に平和を与えられ、神様からの導きを受けるのです。


<キリストのことばを豊かに住まわせる>

 16節は、「キリストのことばを豊かに住まわせる」、「知恵を尽くして互いに教え、戒める」、「感謝に溢(あふ)れて心から神に向かって歌う」と多くの内容を含むものとなっています。これらのことが成されるところにキリストの平和が実現していく。これは私たちが行なっている礼拝、交わり、讃美ではないかと思います。  

 みことばを豊かに住まわせなさいとありますが、みことばの力がどれほどのものであるかは、詩篇やヘブル書に書かれています。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える」(詩篇119:130) 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄(こつずい)の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4:12)。みことばは私たちを育て、聖なるものとする力を持っているのです。  

 みことばを豊かに住まわせるは、ある訳では「キリストのことばをあなた方の心情と知性の中に宿らせなさい」となっています。みことばをとても深く受け取っていくということです。信仰生活では、聖句暗唱やデボーション、分かち合いが勧めらます。礼拝でのみことばを聞いて、交わりの中でそれを分かち合うことにより、信仰生活の上で大きな相乗効果がもたらされると感じています。所属教会でも礼拝説教の分かち合いを青年たちと行なっており、聞き漏(も)らしを防ぐ意味もありますが、お互いに励まされ、力を得る経験をしているのです。

 福音は、本当に理解した時に勢いをもって広がるものです(1:6)。心情と理性をもって、深い所でみことばを受け取り、また、交わりの中や共に讃美する中で、みことばの理解が深められていくのです。すうっと当たり前のように読んでいた聖書のことばに深くとどめられる。私たちを生まれ変わらせ、活かしてくださる神のことばによって、私たちは生きていくのです。


<すべて主イエスの名によってなす(17)>

 ある解説では、主の御人格に依(よ)り頼んで、の意味があると説明しています。神様を忘れることの多い私たちですが、上にあるものを求める、その具体的なあり方として、この「主イエスの名によって全てのことをなす」ことが勧められているのです。学生たちは、どんな状況でも、今ここに遣わされたのは神様だという信仰を教えられて、卒業してからそれぞれの職場や生活の場所で、主イエスの名による歩みを実践していきます。  

 私自身も、大学を卒業してしばらくは、恐れながら仕事をしている時期がありました。そんな時にデボーションで、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)のみことばを聞いて、そこから力が湧いて仕事に当たれるようになった経験もあります。    


 生活の只中でみことばが心に響いて、そのみことばへの応答として、すべて主イエスの名によってなすように勧められているのです。みことばを心にとめながら、主に依(よ)り頼んで生きていくのです。みことばの力は強く、私たちを本当に生かしてくださるものです。私たちが、キリストの平和に支配され、感謝する心を持ち、キリストのことばを心に住まわせ、そして全てのことを主イエスの名によってすることができるように願います。

  (要約まとめ:田内博)


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