(2017年9月)

 ・ 9月24日
 ・ 9月17日
 ・ 9月10日
 ・ 9月 3日
 




 9月24日
メッセージ要約 主題:「世界宣教ビジョンの中に」

           ヨエル2:28~29  上郡(かみごおり)福音教会 豊村善典牧師

<挨拶>

 今日は久遠キリスト教会の礼拝に家内とともに出席させていただきありがとうございます。息子の臨太郎が今春より皆さんの教会で奉仕させていただくことになり感謝いたします。また、先月には小野淳博神学生ご家族をインターンで送ってくださり、とても良い時を過ごせて感謝しております。今日は私たち家族が上郡に導かれ、特に教えられ励まされたことをメッセージさせていただきます。説教題は「世界宣教ビジョンの中に」です。まず、入信の証しをさせていただきます。


<入信の証>

 入学した大学がミッションスクールでしたので礼拝があり、そこでは讃美歌が歌われていました。その讃美歌が私にとって衝撃でした。讃美歌121「まぶねの中に」です。私も歌っているうちに、目から涙がとめどなく流れました。イエス・キリストの生涯が歌われていました。「まぶねの中に うぶごえあげ 大工(たくみ)の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ/食するひまも うち忘れて しいたげられし 人を訪ね 友なき者の 友となりて 心砕きし この人を見よ/すべてのものを あたえしすえ 死のほか何も 報いられで 十字架の上に あげられつつ 敵を赦しし この人を見よ/この人を見よ この人にぞ こよなき愛はあらわれたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ」

 この讃美歌を歌いながら、「この人にもっと早く子どものころから会いたかった」という願いが起こりました。私は高校時代に体を壊し勉学が遅れ悶々(もんもん)と苦しみ、そんな中で自分の自己中心や色々な罪が示され、自分の弱さを認めざるを得ませんでした。何とか大学に入学できましたが、自分の人生の導き手に出会いたいと願っていました。ですから、「この人」すなわちイエス・キリストをもっと知りたいと思うようになりました。

 約1か月後に学校からの帰り道、自宅付近で天幕集会の案内を受け取り出席しました。その時の説教者が滝元明牧師でした。神について、罪について、イエス・キリストが救い主であることを明瞭に大胆に語られていました。最初は少なくとも信じるには1年以上かかると感じていましたが4日目にイエス・キリストを救い主と信じることができました。私の人生ははっきり変わりました。

 その後、教会に通う中で婦人伝道師が「豊村さん、大学にはKGKというのがあるので、そこで伝道したらどうですか」と勧められました。探していますと2回生の秋に同じ志を持つ神学生と出会いました。以後紆余曲折がありましたが4回生になって伝道熱心な新入生が数名与えられ祝福されました。そのグループは今も続いています。ちなみにその時、家内に初めて出会い7~8年後に結婚しました。


<献身の証>

 大学3回生の終わり頃に広い意味での献身の決心に導かれました。卒業直前に聖霊のバプテスマ(満たし)を経験し、フルタイムの献身の決心に導かれました。神学校を卒業してから大阪にある母教会で牧師として約6年奉仕しました。


<上郡(かみごおり)への召命>

 当時、私の所属教団(日本福音教会)の機関紙の責任を担っていました。上郡に安く良心的な印刷屋があり時々上郡を訪れていました、1980年11月21日、私は当時帰国中の宣教師の家に一泊しました。その夜、平安とともに上郡への導きの確信が与えられました。それまで3組の宣教師が開拓の働きをしてきていましたが苦戦していました。1981年2月22日より、その開拓の働きを引き継ぐことになりました。私達を含めて10名足らずの集いでした。既成の教会で奉仕してきた私たちにとっては多くが初めての体験でした。

 2年目の夏です。世界的青年宣教団体のユースウィズアミッションから、アメリカより2名の青年たちが40日間宣教協力で滞在しました。ほぼ上郡全域を彼らと教会の青年女子数名とでチラシを配布し、集会をして回りました。あるとき、上郡でも奥地にあたる一山越えた十数件の地域までアウトリーチをしているとき、ふとこのアメリカからの青年たちにとって、この地はまさに地の果てなんだなと思いました。彼らは使徒の働き1章8節の御言葉に従ってまさに地の果てまで福音を伝えているのです。そして、実は私自身も彼らとともに世界宣教に遣わされているのだという思いが心の中を満たしました。そして上郡が中心でなく、私は神中心で神の世界宣教ビジョンによって日本経由で上郡に遣わされているのだと思えるようになったのです。すると不思議に世界宣教で彼らと結ばれているという連帯意識を感じることができたのです。


<具体的世界宣教との関り>

 世界宣教意識を持ちつつ地方伝道に専念していますと、1987年ごろから所属団体の海外宣教の責任を委ねられるようになりました。以来、団体から宣教師志願者が起こされその支援会立ち上げに携わるようになり、それから何組かの宣教師が派遣されるようになりました。また上郡からもアメリカ・シアトルに日本人アジア人宣教のために宣教師が起こされるようになりました。今は日本福音教会(JEC)から9組の宣教師が起こされています。私は約2年前に責任を他の牧師に譲ることになりました。

 現在は、今までの宿題に携わりつつあります。それは地方伝道の前進です。上郡福音教会で信徒の皆さんと共有しているビジョンがあります。それは教会のない町々に教会を建て上げることです。具体的には北隣の佐用町と北上し鳥取県南端の町智頭(ちづ)町に教会を建て上げることです。佐用町には小さな群れですがブランチが誕生しています。智頭町にも伝道しています。私の目の黒いうちに教会が誕生すればと祈っています。もし、私の在世中実現しなくても私は安心しています。なぜならそれは世界宣教ビジョンの流れの中に置かれているからです。教会の後継者たちによって万軍の主のご熱心がそれを実現してくださると信じているからです。


<おすすめ>

 世界宣教意識を持つと教会も前進し、世界宣教との関りも持つことができるようになります。

 世界宣教は教会が成長し大きくなって余裕ができたら始めるものではありません。使徒1:8は発展的に解釈できるが、実は同時並行的解釈もできます。(1990年ごろのアジア宣教会議で当時の総責任者インドのセオドル・ウィリアムス師のことば)。初めから世界宣教意識を持つべきで、そのために祈り、捧げ、できる働きをしてゆきましょう。

 神のビジョン、特に世界宣教ビジョンの流れに身を委ねていると、とても楽で力が沸き上がってきます。私は73歳ですがこのビジョンによって力が与えられます。

 神は聖霊により、あらゆる人々に、老若男女を問わず、社会的立場を越えて、夢、幻すなわちビジョンを与えてくださいます。その夢、幻は世界宣教ビジョンです。その中をご一緒に歩ませていただきましょう。
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 9月17日
メッセージ要約 主題:「祈り叫ぶ人生」

           ヘブル人への手紙5:7他 三浦真信牧師

 キリストを信じてどのように年を重ねていくか、多くのクリスチャンの方の証しを聞いて共通に教えられることが二つあります。

① キリストがどのように歩まれたかを思いながら生きる

 キリストをどのような方と信じるかが生き方そのものに影響を与えます。また様々な問題や悩みに答えを与えます。たとえばピリピ教会で起きていた信徒同士のトラブルに対して、パウロは一致を保つように伝え「自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と勧めています(ピリピ2:2~4)。しかしそのように言われてそれが良いとわかっても、なかなか実行できないものです。それに対してパウロは、これがキリスト・イエスのうちにも見られるものとして、キリストがどのように歩まれたかを記します。すなわちキリストは神でありながら、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして十字架の死にまで従われたのです(ピリピ2:5~9)。キリストがそのように歩まれたからこそ、信じる私たちに救いがもたらされたのです。生まれながらの私たちの肉の性質は自己中心ですから、自分のあり方、自分の思いにこだわります。でもキリストがご自分を無にして仕える者の姿をとられたことで、素晴らしい救いの恵みがもたらされたことを思うときに、そのような歩みをさせていただきたいと願うようになります。キリストが私たちのためにしてくださったことを心に留めることが、日常生活の具体的な知恵となり、生き方の土台となるのです。


② どのようなことも祈り叫んでいく人生

 へブル5:7で、「キリストは自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫びと涙とをもって祈りと願いをささげた」
 とあります。キリストは、神が「自分を死から救うことのできる方」と信じて祈り続けたのです。祈るときに、神をどのような方と信じるかが問われます。キリストは、確かに十字架で死なれました。それでも十字架の時までは、どれほど命を狙われても死ぬことはありませんでした。神のみこころに従ってキリストは十字架で死なれましたが、神はキリストを死からよみがえらされました。死 もキリストを支配することはできませんでした。神は死から私たちを救うことがおできになる方です。人間の目には不可能に見えることも、自分の力では限界だと思えることも、そのような神と信じて祈り叫び続けましょう。キリストでさえ、大きな叫び声と涙とをもって祈りささげる人生でした。私たちも、生涯祈り叫ぶ人生を歩みましょう。死から救うことができる方に向かって祈り続けるなら、苦難の中も乗り越えていけます。今誰に向かって叫んでいますか? 「そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」とあります。敬虔とは、品行方正で穏やかで、熱心に奉仕する人のようですが、そうではなく「自分を死から救うことのできる方に向かって祈り叫ぶ人」こそが、敬虔な人なのです。試練の時も神に向かって祈り叫び、神の懐にいつも飛び込んでいく生き方です。キリストもそのように生きたのです。

 なかなか解決しない問題、人間関係のトラブル、大変な仕事や家庭の問題…死から救うことのできる神に祈り叫び続けるなら、主イエスに守られて、いつしか嵐は止んでいることに気がつくことでしょう。生涯祈り叫びながら生きられることを感謝しましょう。祈れる特権を大いに用いましょう。
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 9月10日
メッセージ要約 主題:「イエスの言われた通りであった」

           ルカの福音書22:7~13 三浦真信牧師

<7節>

  この22章に入って、「過越し」という言葉が繰り返し出てきます。「過越しの祭り」は、イスラエル春の祭りのひとつです。1日だけの祭りで、種なしパンの祭りが続いて7日間あります。イエスの時代には、この8日間をまとめて「種なしパンの祝い」と呼ぶようになりました。

 過越しの祭りと種なしパンの日の由来は、出エジプト記12章に記されています。イスラエルが400年以上エジプトで奴隷として苦しんだ時代がありました。過酷な労働を強いられ、彼らの苦しみ嘆き叫びを神は知ってあわれみ、彼らを救出するために神はモーセをエジプトに遣わします。モーセは、エジプトにイスラエルの解放を求めますが、エジプト王は大きな労働力でもあるイスラエルを簡単には手放しません。イスラエルを解放しないエジプトに、神はモーセを通して災いをくだします。そのたびにエジプト王はイスラエルの解放を一度は約束しますが、災いが終息すると心を翻(ひるがえ)して、イスラエルの解放を拒否しました。それを繰り返し、10番目最後の災いがくだります。それはエジプト中の初子(長男)が打たれるという災いでした。ただし羊の血を門柱とかもいに塗った家は、その災いはくだらず通り過ぎていきました。この災いの後ついにエジプトは観念し、イスラエルを解放します。イスラエルがエジプトを脱出する夜、急いでいたためパンを発酵させる時間がありませんでした。彼らは種(イースト)のないパンを食べて、エジプトを発ちます。

 過越しの祭りも種なしパンの祝いも、イスラエルにとって歴史的な出来事を思い起こすために毎年もたれてきました。神があのエジプトでの苦しみから、力あるわざによって助け出してくださったという神のあわれみに感謝をする日です。

 神様がしてくださった良いことを、人はすぐに忘れてしまいがちです。それよりも、祈ったのにその通りにならなかったこと、願っていた道が閉ざされたことなどを思い出して不平を言ったりするのです。イスラエルも、エジプトを脱出するときには大喜びしたのに、イスラエルに向かう荒野の旅では、少し苦しいことがあると「エジプトで奴隷でいるほうが良かった」とつぶやきました。これが人間の本質です。だからこそたえず神の恵みを思い出す場所が必要なのです。毎週の礼拝も、すぐに神の恵みを忘れて不平不満になりやすい人間にとって、恵みを思い起こして主を見上げる大切な場です。

 イエスは、これから弟子たちと過越しの食事をしようとしていました。イエスは神の小羊として 十字架で血を流されます。小羊の血を塗った家を災いが通り過ぎたように、イエスの十字架の血潮により、罪の災いは取り除かれるのです。イエスが十字架にかけられる直前であるだけに、この時の弟子たちとの過越しの食事は特に意義深いものとなります。イエス・キリストを信じる者は、罪の刑罰を受けることなく、罪の災いは通り過ぎるのです。


<8節>

 過越しの食事を準備するために、弟子のペテロとヨハネが遣わされます。彼らはここで、イエスの言葉に従うとはどのようなことかを具体的に学びます。特にペテロとヨハネは、初代教会のリーダーとして様々な困難に会います。この時の経験は、その時にも生かされたことでしょう。


<9節>

 弟子の二人は、「どこに(過越しの食事を)準備しましょうか」とイエスに尋ねます。過越しの祭りには、エルサレム以外の地域からも大勢集まります。この時期に過越しの食事をするような広い部屋を、簡単には確保できません。ペテロとヨハネは、「こんなに多くの人がごった返している時期に、どこにそのような部屋があるでしょうか」という気持ちで聞いたのかもしれません。


<10~12節>

 当時水を運ぶときには、たいてい男性は皮袋に入れて運び、水がめに入れて運ぶのは女性でした。ですから、男性で水がめを運んでいる人は珍しいのですぐにわかりました。イエスは、町に入ったら水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついていくように彼らに伝えます。家の主人が、席が整っている二階の大広間を見せてくれるので、そこで過越しの食事を準備するようにとイエスは命じます。


<13節>

 ペテロとヨハネは、単純にイエスが言われた通り町に出ていきました。するとすべてイエスが言われた通りでした。過越しの祭りで空いている部屋がなくても当然でしたが、イエスが行けと言われた時には、すべてイエスが整えてくださっているのです。私たちも、主の言葉についていくときに、同じことを経験できるのです。主イエスは難しいことを私たちに命じておられません。私たちの側で勝手に難しく考えてしまいがちですが、信じてイエスが言われた通りに実行してみれば良いだけなのです。色々分別して、「大変だ!」と背負い込んでしまうと、行くこと自体が煩わしくなってしまいます。神様が行きなさいと言われたら、単純に行けばよいのです。そうすれば、主がすべて整えて恵みを用意してくださっています。

 新しいことにチャレンジするとき、知らないところに行くとき、状況から困難が予想されるときに、私たちは恐れます。でも主が行きなさい、チャレンジしなさいと言われる時には、主ご自身を信じて、ついていきましょう。そこでできることをさせていただきましょう。主が遣わしてくださる時には、大丈夫なように主が整えてくださっています。私たちのできないことは、聖霊が助けてくださいます。心を騒がせず、神を信じましょう(ヨハネの福音書14:1)。
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 9月3日
メッセージ要約 主題:「ゆるされた人」

           マタイの福音書18:21~35  三浦真信牧師

 イエスの弟子ペテロは、「誰かが自分に悪いことをした時に、何回まで赦すべきですか?」と尋ね、「7回まででしょうか?」と問いかけます。当時の律法の先生たちは、「人があなたに罪を犯したときは、3回まで赦しなさい」と教えていました。ですからペテロとしては、「7度まで赦せば良いですか?」と質問したら、イエス様にほめられると思ったのかもしれません。

 でもイエスは、「7度の70倍赦しなさい」と答えられました。つまり「限りなく赦しなさい」ということです。ペテロも一緒に聞いていた弟子たちも、とてもびっくりしたことでしょう。そしてとてもそんなに赦すことはできないと思ったはずです。そんな驚いた顔をしている弟子たちを見て、イエスは一つのたとえ話をしました。


 1万タラント(約6000億円)の借金をしている人がいました。その人は借金を返済することができず、主人に「それなら持ち物、家族を売ってでも返しなさい」と言われます。借金した人は、ひれ伏して「何とか返すので、もう少し待ってください」と言うので、かわいそうになった主人はすべての借金を免除しました。しかしその借金6000億円を帳消しにしてもらった人も、ある人に100デナリ(約100万円)を貸していました。彼は6000億円の借金を取り消してもらったのに、100万円を返せないで「もう少し待ってください」という人の首を絞めて、借金を返すまで牢に投げ入れてしまいます。一部始終を見ていた仲間たちは非常に悲しみ、この出来事を主人に報告します。すると主人は彼を呼びつけて、帳消しにした6000億円の借金を返すまで彼を牢に入れてしまいました。 この1万タラント(6000億円)の借金をしているのは、すべての人です。神さまに対してはすべての人が、一生働いても返済できないほどの罪の借金を負っているのです。きよい神さまに対して、私たちは罪を犯さないではいられないのです。表面上良い事だけをすることはできても、心の中ではすぐに悪いことを考えてしまいます。罪を犯さないではいられないのです。それは最初の人アダムの時からの罪(原罪)をすべての人が引き継いでいるからです。でもこの罪の借金を抱えたままでは、永遠の牢に閉じこめられてしまいます。神は、どんなに頑張っても自分で自分をきよくすることができない私たちをあわれんでくださり、独り子イエス・キリストを送ってくださいました。キリストが、私たちの返せない罪の借金を肩代わりしてくださり、私たちの罪の罰を十字架で代わりに負って死なれたのです。「自分の力では罪の負債を返せません、 負い切れません、助けてください」と神に叫び、イエス・キリストの十字架の死によってすべての罪が赦されたことを信じるなら、神は私たちのすべての罪の借金を帳消しにしてくださるのです(コロサイ2:13~14)。


 本来なら返しきれない罪の負債すべてを、キリストの十字架の死によって赦されていることがわかってくると、赦せない人を赦したいという思いが生まれてきます。「これほどの借金を赦されたことを思えば、はるかに小さな他の人の罪を赦すのは当然ではないか」と思えてくるのです。それでも赦せないこともあります。その時には、神が遣わしてくださった助け主、聖霊に頼りましょう。父なる神と、御子なるキリストと、聖霊なる神は一つです。聖霊の助けを求めながら、神が赦された人を赦せるように変えていただきましょう。赦せない人がいることは、自分自身が苦しいことです。まずたくさんの罪の借金を、イエス様が代わりに十字架で死んで支払ってくださったことを信じ感謝しましょう。イエス様の赦しを受け取ることは、私たちの生き方や人間関係にも大きな影響を与えるのです。多大な罪の借金を赦された人として生きましょう。
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