(2017年8月)

 ・ 8月27日
 ・ 8月20日
 ・ 8月13日
 ・ 8月 6日
 




 8月27日
メッセージ要約 主題:「解かなければならない謎」

           士師記14:10~20  三浦真信牧師

<10~14節>

  ティムナに住むペリシテ人女性と結婚することになったサムソンは、花嫁側の習わしに従って祝宴をします。その祝宴は1週間続きました。

 サムソンは祝宴の席で、彼につき添った30人の客たちになぞをかけます。7日間でそのなぞが解けたら、亜麻布の着物30着と晴れ着30着を彼らに贈呈し、解けなかったらサムソンがそれらを受け取るという約束をしました。かなり高価なものですから、サムソンは勝つ自信があったのでしょう。

 サムソンが出したなぞは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た」という内容でした。30人の客は、3日経っても答えを出すことができませんでした。


<15~17節>

 4日目になってもなぞが解けないため、ついに彼らはサムソンの妻を脅迫します。なぞの答えを教えないと実家に火をつけると言って脅します。そこでサムソンの妻は、夫に泣きすがり、しきりにせがみ、ついに7日目にサムソンは彼女になぞの答えを明かしてしまいます。そして彼女は30人の客たちに答えを明かします。


<18節>

 ティムナの町の人々は、サムソンのなぞに「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か」と答えました。なぞの「食らうもの」「強いもの」(14節)は雄獅子(ライオン)で、「食べ物」「甘い物」は蜂蜜と答えたのです。これは、サムソンがティムナのぶどう畑で個人的に経験したことでした(5~9節)。

 サムソンは、妻が彼らになぞの答えを明かしたことを悟り、裏切った妻のことを「私の雌の子牛」と呼んでいます。


<19~20節>

 サムソンは、ティムナの人々のずるいやり方に怒り、ペリシテ人の町アシュケロン(ティムナの南西約350キロにある地中海沿岸の町)の人々から晴れ着をはぎ取り、なぞを明かした者たちに約束通り渡しました。 サムソンとティムナの女との結婚は破談になり、彼女はサムソンにつき添った客のひとりと結婚します。


 神は、イスラエルをペリシテ人の手から解放するために、サムソンを士師として選びました。ですからティムナの女との結婚の出来事も、神のご計画が前進するために用いられています。このことを、サムソンがペリシテ人と対決していく機会とされたのです。「一体この出来事は何ということだろう」と思えることを通しても、神はご自身の計画を着々と進めていかれるのです。上手くいかない人間関係、骨肉の争い、思わぬトラブルさえも、神はご自身の計画のために用いられます。

 またサムソンのように、情にもろく、欠点も多く、神にささげられたナジル人としての決まりも守れないような者をも、神は士師として選ばれました。「神がサムソンを選ばれた」という一事において、彼はどうしようもない弱さを持ったままで用いられたのです。神さまの選びとはそういうものです。この世の取るに足りない者、愚かで弱い者、無に等しいものを神は選ばれるのです。それは、神の御前でだれをも誇らせないためです(Ⅰコリント1:27~29)。神の選び、神のご計画は、深遠で長期的(神の目には短い)なものです。人間の常識や表面的なところでは測り知れないのです。

 またサムソンの出したなぞには、キリストの恵みが預言されています。彼は、ライオンの遺体にできた蜂の巣からとれた蜂蜜をなぞにしました。ライオン(獅子)はイエス・キリストをさします(ヨハネ黙示録5:5)。強い神の子キリストから、蜂蜜のように甘い救いの恵みが、十字架を通して流れ出るのです。キリストから流れる蜜を実際に食べる時に、その甘さを味わうことができます。サムソンの妻のように、答えだけを聞いて正解がわかっても、そのうま味はわかりません。イエス・キリストの十字架を通して罪赦される喜び、滅びからいのちに移される平安は、人から聞いただけの間接信仰では経験できません。一人ひとりが、サムソンのこの預言的な問いに対しての答えを自分で解かなければならないのです。ユダ族から出たダビデの子孫であるキリストの恵みを受けとり、キリストから流れる蜜のような恵みを、しっかり受け取りましょう。

 キリストの十字架の恵みを受け取って聖書を読むなら、みことばは蜜よりも甘いものとなります(詩篇19:7~10)。「キリストの十字架の血潮によって、私の罪は完全にきよめられた」と日々宣言しましょう。「キリストは私に復活のからだを用意して下さっている」、「主はすべてのことを益としてくださる」、「主のご計画は完全で必ず実現する」と宣言しましょう。キリストの十字架がぼやけると、聖書全体がぼやけてきます。神の子キリストの十字架の死と復活が、私のためであったと聖霊によって受け取る時に、聖書のどのことばを読んでも、蜂蜜のように甘く、またみことばは私たちに力を与えるのです。
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 8月20日
メッセージ要約 主題:「愛され、赦され、贖われた逃亡奴隷」

           ピレモンへの手紙11~25   豊村臨太郎伝道師

<11節〜14節>

 「手紙の第1の用件:オネシモを送り返します。」  11節には、パウロの言葉遊び(ユーモア)が込められています。「オネシモ」という名前の由来は、ギリシャ語の「オネーシス」で、「役に立つ者」とか「有益な者」という意味があります。パウロはここで「オネーシス」と同じ「役に立つ」と意味の「エウクレーストン」を使っています。「エウクレーストン」は、パウロが好んで使った表現「エン・クリストー」(キリストにある)の響きと似ています。つまり、「役に立たなかったオネシモが、イエス・キリストにあって本当に役に立つ者となった。」キリスト信じたことで、「本来の名前の通り素晴らしい人物に変えられた。」というメッセージが込められています。私たちも、キリストを信じ、愛の中に生かされるなら、本来、神様が私たちに与えてくださった賜物や自分らしさが「キリストにあって」発揮されると信じます。  

 続けて、パウロはオネシモが本当に変えられた証拠として、12節では、「彼は私の心そのものです。」 13節、14節では、「彼を私のところ(ローマ)にとどめておきたい。」「あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えた。」と言っています。それほどオネシモは「役に立つ者」と変えられたのです。  

 同時に、ピレモンの「同意なしには何一つすまい」と、ピレモンがオネシモの本来の所有者であることも忘れていません。双方に対する配慮をもって、パウロは「オネシモをあなたのもとに送り返します。」と伝えています。


<15節〜17節>

 「手紙の第2の用件:愛をもってオネシモを受け入れて下さい。」  

 15節で、パウロはオネシモが逃亡した事を「あなたから離された」と受動態で語っています。パウロはオネシモの勝手な行動の背後にも、神様の御手があったことを認めていたのでしょう。ローマ8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。罪深く、身勝手な人間の背後に、万事を益と変えて下さる神様のご計画があることはパウロは信じていたのです。  

 16節では、神様のご計画が何であるのかを述べています。それは、「もはや奴隷としてではなく愛する兄弟として」とあるように、ピレモンがオネシモを「主人と奴隷の関係ではなく」「キリストにある愛する兄弟として」取り戻すためだというのです。当時「奴隷」は「生ける道具」であり人間として扱われていませんでした。奴隷を「愛する兄弟」と呼ぶのは天地がひっくり返るほどの衝撃でした。パウロは「キリストにあって奴隷も自由人もない。」というメッセージを、このピレモンへの手紙で実践しています。そして、ピレモンにも御言葉の通りに生きることを願い勧めているのです。  

 17節では、「もし、あなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。」といっています。パウロが、そこまで親身になってオネシモをとりなす背後には、自分自身もキリストへの回心直後に、バルナバによってとりなされた経験があったからでしょう。


<18節〜20節>

 「手紙の第3の用件:負債を弁償します。」

 18節でパウロは「もし、彼があなたに損害をかけているなら、その請求は私にしてください。」と言っています。「請求は私に」という言い回しは、商業用語で「勘定をまわす」という言葉が使われています。天幕職人だったパウロらしい表現とも言えます。  

 19節には、「この手紙は私パウロの自筆です。」とありますが、実印を押したのと同じ意味です。「全て私がなんとかしますから、とにかくオネシモを赦し受け入れてあげてください。」という、パウロの強い意志が込められています。  

 20節では、「私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心を元気づけて下さい。」と言っています。裏を返せば、パウロは元気づけられる必要があるほどオネシモのことが心配でしかたがなかったということでしょう。  


<まとめ>

 (1)パウロがオネシモをピレモンのもとに送り返したように、神様は、私たちを御心の場所へと送り帰してくださいます。私たちは、イエス・キリストを信じることで、新しく造りかえられます。(2コリント5:17)それは、ある意味で一度この罪の世から切り離されることです。でも、決して「世捨て人」のようになるわけではありません。神様は、私たちをキリストにあって、もう一度この世に送り返してくださいます。

 (2)神様は、私たちに目的をもっておられます。それは「神様に愛された者」「神様に赦された者」として生きることです。パウロはオネシモを「愛する兄弟として」「罪赦されたもの」として、ピレモンのもとへ送り返しました。逃亡奴隷が生きて、主人のもとに戻るなどあり得ないことでした。オネシモがそこに居るだけで「キリストの愛の証」になったことでしょう。そして、断絶していたピレモンとオネシモの関係が回復することを通して、教会も祝福されたと思います。教会は赦された罪人の集まりであることが確認され、キリストの体としての交わりが更に豊かにされたと信じます。同じように、神様は、私たちを愛し赦してくださっています。私たちがキリストを信じ、「神様の愛を受けた者として生きる」こと自体が、神様が私たちに与えてくださっている目的であり使命です。そのような一人一人を通して、キリストの体である教会が祝福されてゆくのです。

 (3)パウロがオネシモの負債を賠償したように、キリストは、私たちの「罪の負債」を贖ってくださいました。聖書には「全ての人は罪を犯した。」(ローマ3:23)とあります。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるように、どんな人も死んで永遠の裁きを受けなければなりません。そのような私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架にかかってくださり、私たちが返済しきれない負債をすべて担ってくださいました。コロサイ人への手紙2章13節、14節には、次のように書かれています。「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」オネシモがパウロにすべてを任せたように、私たちもキリストを信じ全てをお任せする時、愛され、赦され、贖われた者として、キリストの恵みと祝福の中を歩むことができるのです。
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 8月13日
メッセージ要約 主題:「愛に捕らえられた逃亡奴隷」

           ピレモンへの手紙1~10   豊村臨太郎伝道師

<ピレモンへの手紙の概要>

 この手紙が書かれたのは、紀元61年?62年頃でローマ皇帝ネロの時代だと考えられています。著者のパウロは、ローマで囚われの身で、彼のもとにはオネシモという逃亡奴隷が身を寄せていました。パウロは、オネシモを所有者であるピレモンへ送り返そうとして、この手紙を書いています。ピレモンは、おそらくコロサイ教会のクリスチャンで、自宅を開放し礼拝や集会を開くほど熱心なクリスチャンでした。オネシモは、ピレモンの家の奴隷でしたが、ある時、金品を盗み逃亡しローマに流れ着きます。当時の奴隷は主人のもとを逃げるだけで死刑でした。そんな状況で、オネシモはパウロと出会いクリスチャンになります。パウロはピレモンに丁寧な手紙を書き、「オネシモは私のもとでクリスチャンになりました。心から悔い改めています。どうか私に免じてゆるして上げてください。」と、愛を持ってとりなしているのです。


<1節~3節>

 (1)「キリスト・イエスの囚人」  

 ここで、パウロは、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいます。パウロは「ピリピ人への手紙」の3章で、自分は生粋のユダヤ人であり、教会を迫害していたこと、キリストと出会い、人生が変えられたことを証しています。そして、自分の歩みを振り返り「キリスト・イエスが私を捕えて下さった」(ピリピ3:12)と言っています。また、コリント人への手紙第二では、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(2コリント5:14)とも言っています。つまり、「キリスト・イエスの囚人」は、「キリストに捕らえられ、罪が赦され、愛に囲まれている状態」を意味しています。今、キリストを信じる全てのクリスチャンにあてはまることです。「私はキリストの愛に捕らえられた存在」であることを心にとめましょう。


 (2)「家にある教会へ」

 パウロは、この手紙をピレモン個人だけでなく、彼の家族、そして、教会の人々へ送っています。「姉妹アピア」は、ピレモンの妻だと言われています。「戦友アルキポ」は、ピレモンの息子、もしくは、コロサイ教会の牧会者だったという説があります。パウロは、これから語る手紙の内容(お願い)は、単なる個人の問題ではなく教会全体で受け止めてほしいと願い、この問題を通して、教会の交わりがさらに豊かになることを願っています。


<4節~7節>

 (1)「心の目で見つめている」  

 挨拶の後、パウロは「あなたの為に祈っています。」と伝えています。言い換えれば、「離れていても、心の目であなたを見つめている」ことだと言えます。人は、誰かに思われたり、まなざしを感じるとき励まされます。パウロは祈りで「あなたを見つめ、あなたについて神様に感謝している。」と語っています。私たちも、祈りに覚えられ、また、他の人のことを覚えて祈ることを通して、キリストの体としての教会の交わりが豊かにされてゆくと信じます。

 (2)「祈りの内容」

 ピレモンの名前には「深く愛する者」という意味があります。パウロは、ピレモンの信仰と愛に溢れた信仰者としての評判を聞いていました。そのことを神様に感謝し、彼の愛がオネシモの問題を通して、教会の交わりの中で益々豊かにされるように願っています。


<8節~10節>

 (1)「愛によるお願い」

 パウロはピレモンがクリスチャンになるにあたって何らかの影響を与えたと思われます。パウロはピレモンの霊的な父であり指導者でした。また「年老いて」とあるように、当時、パウロは60歳くらいで年齢的にも尊敬されるべき立場でした。そのパウロが「愛によってお願いしたいのです。」と、目の前にいる一人の魂の為に身を低くし、「獄中で信仰に導いた、わが子オネシモのことを、あなたにお願いしたい。」と、訴えかけています。

 (2)「獄中で生んだ我が子オネシモ」

 オネシモとパウロがどのように出会ったのか詳細はわかりませんが、パウロが捕われの身の時、キリストのもとに導いたことは確かです。オネシモは盗みを働き、主人ピレモンのもとを去りローマに逃亡していました。そんな中、誰かの紹介でパウロに出会ったのかもしれません。あるいは、法に触れる罪を犯して捕らえられ獄中でパウロと出会ったのかもしれません。

 パウロがオネシモに語ったイエス・キリストの福音は、ピレモンの家で何度も耳にした話だったと思います。でも、罪を犯し、逃亡し、人生に行き詰まった時に、初めてオネシモの心に響きました。そんな彼に、パウロは恐らく語りかけたでしょう。「子よ、安かれ、あなたの罪は赦された。」 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)  

 オネシモは、パウロを通してイエス・キリストと出会い、単なる「逃亡奴隷」から「キリストの愛に捕らえられた逃亡奴隷」、そして「キリストの愛の交わりに入れられた家族」となりました。  

 今、私たちも、同じイエス・キリストの愛の交わりの中に招かれています。たとえ、どんな罪を犯しても、 どんなに情けない自分でも、人生お先真っ暗でも関係ありません。キリストは、あなたを愛し、あなたの為に十字架で命を捨ててくださいました。そのキリストを信じるだけで、無条件で「キリストの愛に捕らえられた」新しい人生が始まります。
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 8月6日
メッセージ要約 主題:「いのちと平安の道」

           ルカの福音書22:1~6  三浦真信牧師

<1~2節>

 エジプトから解放されたことを記念する過ぎ越しの祭りが近づいた時に、祭司長・律法学者たちはイエスを殺すための方法を捜していました。彼らは、聖書をよく知っている人たちです。「あなたの隣人を愛しなさい」「殺してはならない」という聖書の言葉を教えていた人たちです。その彼らが、イエスを殺そうとしていたのです。彼らは、二つの理由でイエスを憎んでいました。

 一つは、イエスの教えに民衆が共感し、イエスの元に人々が集まっていたことです。そのイエスに対して彼らはねたんでいました。もう一つは、イエスが彼らの心の中の傲慢などの罪を指摘し、形式的な礼拝や偽善に対して忠告したからです。イエスは彼らをおとしめようとしたわけではなく、彼らがみことばの真意を理解してへりくだって神に立ち返ることを願っておられました。しかし祭司長・律法学者たちは、自分が砕かれていく方向ではなく、イエスを攻撃していく方向に行きました。

 この祭司長や律法学者の態度から、反面教師として学ぶべきことがあります。

 ① 生れながらの肉を生かすのではなく、御霊によって歩みましょう。  

 祭司長・律法学者たちは、人々がイエスの教えに耳を傾け、イエスの元に集まることをねたみました。同じような立場の人が、人から良い評価を受けたり成功することを、心から喜べない人間の生れながらの肉の傾向があります。「喜ぶ者といっしょに喜びなさい」(ローマ12:15)という勧めは、時として「泣く者といっしょに泣きなさい」よりも難しい時があります。人間の肉はそうであるからこそ、あえて勧められているのです。ねたみや、人の喜びを共に喜べない心があったら、そのことを認めつつも、それは古い死ぬべき肉ですので、生かしてはいけないのです。肉の欲望を満足させるのではなく、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と命じられています。みことばに示されている、御霊の実(ガラテヤ5:22~23)を結ばせていただく方向を求めましょう。まず自分の中にある肉の姿を認めましょう。そして聖霊に取り扱っていただき、御霊が願う方向に導いていただきましょう。聖霊は助け主です。私たちが自分ではできない、お手上げの出来事を、聖霊はしてくださいます。聖霊の助けを求めましょう。

 ② 間違いを指摘されたり忠告された時に、謙虚に受けとめましょう。  

 祭司長・律法学者たちは、イエスに自分たちの問題点を指摘された時にそれをはね返し、逆に指摘したイエスを攻撃していきました。自分が砕かれる方向ではなく、人を打ち砕いていきました。人から忠告された時には、言われたことをよく吟味(ぎんみ)しましょう。忠告してくれる人がいる人は幸せです。たとえ指摘された通りでなくても、また誤解であったとしても、神がその人を通して何かを自分に伝えようとしておられるのかもしれません。「調子に乗らず、主の御前に謙虚に歩みなさい」というメッセージであるかもしれません。人からこんなことを言われた…と苦々しい思いに支配されるのではなく、その人を通して神は私に何を語っておられるのかを聞きましょう。すべてのことに、神からのメッセージがあります。言った人に向かうのではなく、その人を遣わして語られた神に向かいましょう。  

 「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)。肉の思いを生かしていく方向に、神の祝福はありません。御霊による思いこそ、いのちと平安の道です。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」(ヨハネの福音書6:63)。みことばに示されたいのちと平安の道を求めましょう。いよいよ聖霊により頼みましょう。


<3~6節>

 イスカリオテのユダがイエスを裏切り、イエスを売り渡した理由は、「ユダにサタンが入った」からでした。サタン(悪魔)は、その人の弱さにつけ込んできます。ユダは、お金に弱いところがありました。彼はイエスの弟子たちの中で会計係でしたが、その預かった中からいつも盗んでいました(ヨハネ福音書12:3~6)。そのユダの弱さをサタンは狙ってきたのです。サタンは、イエスが十字架に掛かることを何とか阻止しようと猛攻撃をしかけてきました。イエスの十字架により、人類の救いが成就することを止めたかったのです。そこでイエスの身近にいる弟子のひとりであるユダに入ったのです。  

 このサタンに対しては、抵抗する必要があります。サタンを入れてはいけません。神に従うことで、悪魔に立ち向かいなさいと命じられています(ヤコブ4:7)。人それぞれ弱さがあります。自分の弱さを知っておくことは、悪魔に抵抗するために大切なことです。その弱さをサタンは攻撃してくるからです。サタンが自分の弱さを用いようとしていることに気づいたら、それに対しては抵抗しましょう。サタンが入ってくることを許してはいけません。サタンの誘惑を感じた時に、それを跳(は)ね除(の)ける聖書の言葉を用意しておきましょう。また交わりにおいても、人の肉を助長させるような行動や誘惑は極力避けるようにしましょう。あえてサタンが攻撃する材料を置かないように気をつけましょう。  

 生きている限り、たえず古い肉の残骸(ざんがい)があり、それが私たちのうめきとなります。でも肉の思いを生かしていく方向は、死と滅びでしかありません。肉の欲を満足させる方向は、サタンにつけ入る隙を与えるだけで、何の益ももたらしません。いのちと平安につながる御霊の思いを求めましょう。自分の弱い肉の部分がサタンに引っ張られそうになっても、主に助けを叫び求め、それに従わず御霊に導いていただきましょう。御霊が助けて下さり、私たちをたえず「いのちと平安」の道に引き戻してくださいます。
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