(2017年8月)

 ・ 8月13日
 ・ 8月 6日
 




 8月13日
メッセージ要約 主題:「愛に捕らえられた逃亡奴隷」

           ピレモンへの手紙1〜10   豊村臨太郎伝道師

<ピレモンへの手紙の概要>

 この手紙が書かれたのは、紀元61年?62年頃でローマ皇帝ネロの時代だと考えられています。著者のパウロは、ローマで囚われの身で、彼のもとにはオネシモという逃亡奴隷が身を寄せていました。パウロは、オネシモを所有者であるピレモンへ送り返そうとして、この手紙を書いています。ピレモンは、おそらくコロサイ教会のクリスチャンで、自宅を開放し礼拝や集会を開くほど熱心なクリスチャンでした。オネシモは、ピレモンの家の奴隷でしたが、ある時、金品を盗み逃亡しローマに流れ着きます。当時の奴隷は主人のもとを逃げるだけで死刑でした。そんな状況で、オネシモはパウロと出会いクリスチャンになります。パウロはピレモンに丁寧な手紙を書き、「オネシモは私のもとでクリスチャンになりました。心から悔い改めています。どうか私に免じてゆるして上げてください。」と、愛を持ってとりなしているのです。


<1節〜3節>

 (1)「キリスト・イエスの囚人」  

 ここで、パウロは、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいます。パウロは「ピリピ人への手紙」の3章で、自分は生粋のユダヤ人であり、教会を迫害していたこと、キリストと出会い、人生が変えられたことを証しています。そして、自分の歩みを振り返り「キリスト・イエスが私を捕えて下さった」(ピリピ3:12)と言っています。また、コリント人への手紙第二では、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(2コリント5:14)とも言っています。つまり、「キリスト・イエスの囚人」は、「キリストに捕らえられ、罪が赦され、愛に囲まれている状態」を意味しています。今、キリストを信じる全てのクリスチャンにあてはまることです。「私はキリストの愛に捕らえられた存在」であることを心にとめましょう。


 (2)「家にある教会へ」

 パウロは、この手紙をピレモン個人だけでなく、彼の家族、そして、教会の人々へ送っています。「姉妹アピア」は、ピレモンの妻だと言われています。「戦友アルキポ」は、ピレモンの息子、もしくは、コロサイ教会の牧会者だったという説があります。パウロは、これから語る手紙の内容(お願い)は、単なる個人の問題ではなく教会全体で受け止めてほしいと願い、この問題を通して、教会の交わりがさらに豊かになることを願っています。


<4節〜7節>

 (1)「心の目で見つめている」  

 挨拶の後、パウロは「あなたの為に祈っています。」と伝えています。言い換えれば、「離れていても、心の目であなたを見つめている」ことだと言えます。人は、誰かに思われたり、まなざしを感じるとき励まされます。パウロは祈りで「あなたを見つめ、あなたについて神様に感謝している。」と語っています。私たちも、祈りに覚えられ、また、他の人のことを覚えて祈ることを通して、キリストの体としての教会の交わりが豊かにされてゆくと信じます。

 (2)「祈りの内容」

 ピレモンの名前には「深く愛する者」という意味があります。パウロは、ピレモンの信仰と愛に溢れた信仰者としての評判を聞いていました。そのことを神様に感謝し、彼の愛がオネシモの問題を通して、教会の交わりの中で益々豊かにされるように願っています。


<8節〜10節>

 (1)「愛によるお願い」

 パウロはピレモンがクリスチャンになるにあたって何らかの影響を与えたと思われます。パウロはピレモンの霊的な父であり指導者でした。また「年老いて」とあるように、当時、パウロは60歳くらいで年齢的にも尊敬されるべき立場でした。そのパウロが「愛によってお願いしたいのです。」と、目の前にいる一人の魂の為に身を低くし、「獄中で信仰に導いた、わが子オネシモのことを、あなたにお願いしたい。」と、訴えかけています。

 (2)「獄中で生んだ我が子オネシモ」

 オネシモとパウロがどのように出会ったのか詳細はわかりませんが、パウロが捕われの身の時、キリストのもとに導いたことは確かです。オネシモは盗みを働き、主人ピレモンのもとを去りローマに逃亡していました。そんな中、誰かの紹介でパウロに出会ったのかもしれません。あるいは、法に触れる罪を犯して捕らえられ獄中でパウロと出会ったのかもしれません。

 パウロがオネシモに語ったイエス・キリストの福音は、ピレモンの家で何度も耳にした話だったと思います。でも、罪を犯し、逃亡し、人生に行き詰まった時に、初めてオネシモの心に響きました。そんな彼に、パウロは恐らく語りかけたでしょう。「子よ、安かれ、あなたの罪は赦された。」 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)  

 オネシモは、パウロを通してイエス・キリストと出会い、単なる「逃亡奴隷」から「キリストの愛に捕らえられた逃亡奴隷」、そして「キリストの愛の交わりに入れられた家族」となりました。  

 今、私たちも、同じイエス・キリストの愛の交わりの中に招かれています。たとえ、どんな罪を犯しても、 どんなに情けない自分でも、人生お先真っ暗でも関係ありません。キリストは、あなたを愛し、あなたの為に十字架で命を捨ててくださいました。そのキリストを信じるだけで、無条件で「キリストの愛に捕らえられた」新しい人生が始まります。
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 8月6日
メッセージ要約 主題:「いのちと平安の道」

           ルカの福音書22:1〜6  三浦真信牧師

<1〜2節>

 エジプトから解放されたことを記念する過ぎ越しの祭りが近づいた時に、祭司長・律法学者たちはイエスを殺すための方法を捜していました。彼らは、聖書をよく知っている人たちです。「あなたの隣人を愛しなさい」「殺してはならない」という聖書の言葉を教えていた人たちです。その彼らが、イエスを殺そうとしていたのです。彼らは、二つの理由でイエスを憎んでいました。

 一つは、イエスの教えに民衆が共感し、イエスの元に人々が集まっていたことです。そのイエスに対して彼らはねたんでいました。もう一つは、イエスが彼らの心の中の傲慢などの罪を指摘し、形式的な礼拝や偽善に対して忠告したからです。イエスは彼らをおとしめようとしたわけではなく、彼らがみことばの真意を理解してへりくだって神に立ち返ることを願っておられました。しかし祭司長・律法学者たちは、自分が砕かれていく方向ではなく、イエスを攻撃していく方向に行きました。

 この祭司長や律法学者の態度から、反面教師として学ぶべきことがあります。

 @ 生れながらの肉を生かすのではなく、御霊によって歩みましょう。  

 祭司長・律法学者たちは、人々がイエスの教えに耳を傾け、イエスの元に集まることをねたみました。同じような立場の人が、人から良い評価を受けたり成功することを、心から喜べない人間の生れながらの肉の傾向があります。「喜ぶ者といっしょに喜びなさい」(ローマ12:15)という勧めは、時として「泣く者といっしょに泣きなさい」よりも難しい時があります。人間の肉はそうであるからこそ、あえて勧められているのです。ねたみや、人の喜びを共に喜べない心があったら、そのことを認めつつも、それは古い死ぬべき肉ですので、生かしてはいけないのです。肉の欲望を満足させるのではなく、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と命じられています。みことばに示されている、御霊の実(ガラテヤ5:22〜23)を結ばせていただく方向を求めましょう。まず自分の中にある肉の姿を認めましょう。そして聖霊に取り扱っていただき、御霊が願う方向に導いていただきましょう。聖霊は助け主です。私たちが自分ではできない、お手上げの出来事を、聖霊はしてくださいます。聖霊の助けを求めましょう。

 A 間違いを指摘されたり忠告された時に、謙虚に受けとめましょう。  

 祭司長・律法学者たちは、イエスに自分たちの問題点を指摘された時にそれをはね返し、逆に指摘したイエスを攻撃していきました。自分が砕かれる方向ではなく、人を打ち砕いていきました。人から忠告された時には、言われたことをよく吟味(ぎんみ)しましょう。忠告してくれる人がいる人は幸せです。たとえ指摘された通りでなくても、また誤解であったとしても、神がその人を通して何かを自分に伝えようとしておられるのかもしれません。「調子に乗らず、主の御前に謙虚に歩みなさい」というメッセージであるかもしれません。人からこんなことを言われた…と苦々しい思いに支配されるのではなく、その人を通して神は私に何を語っておられるのかを聞きましょう。すべてのことに、神からのメッセージがあります。言った人に向かうのではなく、その人を遣わして語られた神に向かいましょう。  

 「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)。肉の思いを生かしていく方向に、神の祝福はありません。御霊による思いこそ、いのちと平安の道です。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」(ヨハネの福音書6:63)。みことばに示されたいのちと平安の道を求めましょう。いよいよ聖霊により頼みましょう。


<3〜6節>

 イスカリオテのユダがイエスを裏切り、イエスを売り渡した理由は、「ユダにサタンが入った」からでした。サタン(悪魔)は、その人の弱さにつけ込んできます。ユダは、お金に弱いところがありました。彼はイエスの弟子たちの中で会計係でしたが、その預かった中からいつも盗んでいました(ヨハネ福音書12:3〜6)。そのユダの弱さをサタンは狙ってきたのです。サタンは、イエスが十字架に掛かることを何とか阻止しようと猛攻撃をしかけてきました。イエスの十字架により、人類の救いが成就することを止めたかったのです。そこでイエスの身近にいる弟子のひとりであるユダに入ったのです。  

 このサタンに対しては、抵抗する必要があります。サタンを入れてはいけません。神に従うことで、悪魔に立ち向かいなさいと命じられています(ヤコブ4:7)。人それぞれ弱さがあります。自分の弱さを知っておくことは、悪魔に抵抗するために大切なことです。その弱さをサタンは攻撃してくるからです。サタンが自分の弱さを用いようとしていることに気づいたら、それに対しては抵抗しましょう。サタンが入ってくることを許してはいけません。サタンの誘惑を感じた時に、それを跳(は)ね除(の)ける聖書の言葉を用意しておきましょう。また交わりにおいても、人の肉を助長させるような行動や誘惑は極力避けるようにしましょう。あえてサタンが攻撃する材料を置かないように気をつけましょう。  

 生きている限り、たえず古い肉の残骸(ざんがい)があり、それが私たちのうめきとなります。でも肉の思いを生かしていく方向は、死と滅びでしかありません。肉の欲を満足させる方向は、サタンにつけ入る隙を与えるだけで、何の益ももたらしません。いのちと平安につながる御霊の思いを求めましょう。自分の弱い肉の部分がサタンに引っ張られそうになっても、主に助けを叫び求め、それに従わず御霊に導いていただきましょう。御霊が助けて下さり、私たちをたえず「いのちと平安」の道に引き戻してくださいます。
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