(2017年7月)

 ・ 7月30日
 ・ 7月23日
 ・ 7月16日
 ・ 7月 9日
 ・ 7月 2日
 




 7月30日
 メッセージ要約 主題:「苦しみを通して学ぶ」

            詩篇119:71  三浦真信牧師


 人は生きている限り悩みがあります。また人生の中では、大きな苦しみが襲って来る時もあります。しかし聖書では、苦しみがとても大きな意味を持っていることを伝えています。苦しみを通して、私たちの眠っていた霊の目が覚まされ、真剣に祈りに向かうようにされます。イエス・キリストも十字架の苦しみを目前にして、「この苦しみを取り除いてください」と必死に祈りました。

 この詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言っています(71節)。普通は苦しみには会いたくないものです。このように言えたのには、よほどの理由がありました。それは苦しみを通して「あなたのおきて(神のことば)を学んだ」からです。苦しいだけなら辛いですが、その苦しみを通して、からだで神のことばの事実を体験することができたのです。みことばが真実であることを、苦しみを通して確信したのです。これからは神のことばで生きて大丈夫だと知ったのです。生活の中で起きてくるあらゆることを、聖書のことばで吟味(ぎんみ)し、判断しながら生きていく「信仰の生活」をしようと決めたら、希望が湧いてくるのです。  

 「あなたの御口のおしえ(神のことば)」は、たくさんの金銀、大金よりもすばらしいと続きます(72節)。苦しみを通してその宝を見つけたから、しあわせなのです。  

 私たちと造り主なる神との間に溝を作り、心を暗くするものを聖書では「罪」と呼びます。最初の人アダムが、神のことばには従わない道を選択したことから始まり、罪は代々引き継がれています。その結果としてすべての人は肉体の死を通るようになりました。神の子イエス・キリストは、そのすべての人の罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目に死からよみがえりました。キリストを信じる者は罪赦され、その結果である死をも恐れなくてよいのです。神の国における復活のからだが与えられます。生きている間も、神と共に光の中を歩めるようにしてくださいました。苦しみさえも、神のすばらしさを知るしあわせな出来事に変えてくださるのです。このキリストを心に迎えましょう。
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 7月23日
 メッセージ要約 主題:「解かなければならない謎」

            士師記14:10〜20  三浦真信牧師

<10〜14節>

 ティムナに住むペリシテ人女性と結婚することになったサムソンは、花嫁側の習わしに従って祝宴をします。その祝宴は1週間続きました。

 サムソンは祝宴の席で、彼につき添った30人の客たちになぞをかけます。7日間でそのなぞが解けたら、亜麻布の着物30着と晴れ着30着を彼らに贈呈し、解けなかったらサムソンがそれらを受け取るという約束をしました。かなり高価なものですから、サムソンは勝つ自信があったのでしょう。

 サムソンが出したなぞは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た」という内容でした。30人の客は、3日経っても答えを出すことができませんでした。


<15〜17節>

 4日目になってもなぞが解けないため、ついに彼らはサムソンの妻を脅迫します。なぞの答えを教えないと実家に火をつけると言って脅します。そこでサムソンの妻は、夫に泣きすがり、しきりにせがみ、ついに7日目にサムソンは彼女になぞの答えを明かしてしまいます。そして彼女は30人の客たちに答えを明かします。


<18節>

 ティムナの町の人々は、サムソンのなぞに「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か」と答えました。なぞの「食らうもの」「強いもの」(14節)は雄獅子(ライオン)で、「食べ物」「甘い物」は蜂蜜と答えたのです。これは、サムソンがティムナのぶどう畑で個人的に経験したことでした(5〜9節)。

 サムソンは、妻が彼らになぞの答えを明かしたことを悟り、裏切った妻のことを「私の雌の子牛」と呼んでいます。


<19〜20節>

 サムソンは、ティムナの人々のずるいやり方に怒り、ペリシテ人の町アシュケロン(ティムナの南西約350キロにある地中海沿岸の町)の人々から晴れ着をはぎ取り、なぞを明かした者たちに約束通り渡しました。

 サムソンとティムナの女との結婚は破談になり、彼女はサムソンにつき添った客のひとりと結婚します。


 神は、イスラエルをペリシテ人の手から解放するために、サムソンを士師として選びました。ですからティムナの女との結婚の出来事も、神のご計画が前進するために用いられています。このことを、サムソンがペリシテ人と対決していく機会とされたのです。「一体この出来事は何ということだろう」と思えることを通しても、神はご自身の計画を着々と進めていかれるのです。上手くいかない人間関係、骨肉の争い、思わぬトラブルさえも、神はご自身の計画のために用いられます。

 またサムソンのように、情にもろく、欠点も多く、神にささげられたナジル人としての決まりも守れないような者をも、神は士師として選ばれました。「神がサムソンを選ばれた」という一事において、彼はどうしようもない弱さを持ったままで用いられたのです。神さまの選びとはそういうものです。この世の取るに足りない者、愚かで弱い者、無に等しいものを神は選ばれるのです。それは、神の御前でだれをも誇らせないためです(Tコリント1:27〜29)。神の選び、神のご計画は、深遠で長期的(神の目には短い)なものです。人間の常識や表面的なところでは測り知れないのです。

 またサムソンの出したなぞには、キリストの恵みが預言されています。彼は、ライオンの遺体にできた蜂の巣からとれた蜂蜜をなぞにしました。ライオン(獅子)はイエス・キリストをさします(ヨハネ黙示録5:5)。強い神の子キリストから、蜂蜜のように甘い救いの恵みが、十字架を通して流れ出るのです。キリストから流れる蜜を実際に食べる時に、その甘さを味わうことができます。サムソンの妻のように、答えだけを聞いて正解がわかっても、そのうま味はわかりません。イエス・キリストの十字架を通して罪赦される喜び、滅びからいのちに移される平安は、人から聞いただけの間接信仰では経験できません。一人ひとりが、サムソンのこの預言的な問いに対しての答えを自分で解かなければならないのです。ユダ族から出たダビデの子孫であるキリストの恵みを受けとり、キリストから流れる蜜のような恵みを、しっかり受け取りましょう。

 キリストの十字架の恵みを受け取って聖書を読むなら、みことばは蜜よりも甘いものとなります(詩篇19:7〜10)。「キリストの十字架の血潮によって、私の罪は完全にきよめられた」と日々宣言しましょう。「キリストは私に復活のからだを用意して下さっている」、「主はすべてのことを益としてくださる」、「主のご計画は完全で必ず実現する」と宣言しましょう。キリストの十字架がぼやけると、聖書全体がぼやけてきます。神の子キリストの十字架の死と復活が、私のためであったと聖霊によって受け取る時に、聖書のどのことばを読んでも、蜂蜜のように甘く、またみことばは私たちに力を与えるのです。
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 7月16日
 メッセージ要約 主題:「油断せずに祈っていなさい」

           ルカの福音書21:20〜38  三浦真信牧師

<20〜24節>

 イエスは弟子たちに、世の終わりの前兆についてお話しする中で、紀元70年(語られた約40年後)に起きるエルサレム滅亡の予告をします。ローマ軍がエルサレムを取り囲んだ時に、ユダヤ人たちはエルサレムの町は不滅だと信じてエルサレムに逃げ込みます。しかしクリスチャンは、ここで主イエスが言われた「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」に従い、ヨルダン川を渡って山の方にあるペラという町に逃れて助かりました。エルサレムに逃げ込んだユダヤ人たちは、ティトス将軍率いるローマ軍によって殺されたり捕虜として連れていかれ、エルサレムは陥落します。エルサレムの町に執着し、そこにしがみついた人々は滅ぼされ、主イエスの言葉に従って山に逃げた人たちは助かったのです。  

 キリスト再臨の時にも、同じようなことが起きます。滅びゆく地上のものにしがみついていたら、エルサレムに留まった人たちと同じように滅びます。しかし主イエスの言葉に従って、地上のすべてのものを手放して喜んで主のもとに行くなら、永遠の神の国に入ることができるのです。


<25〜28節>

 宇宙や自然界に、かつてないほどの異常が起きます。「天の万象が揺り動かされる」のです。そのとき「人の子(キリスト)が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る」のをすべての人が見ることになります。2000年前にキリストがこの地に来られた時は、ユダヤのベツレヘムでひっそりと生まれました。しかし今度は「輝かしい栄光を帯びて」世界中の人々に、はっきりキリストだとわかる姿で来られるのです。

 終わりの前兆は、神のご計画を知らない人にとっては「恐ろしさのあまり気を失う」ような、気持ちが萎えてうなだれてしまうような出来事です。しかし神のご計画を知っているあなたがたは、ことさらに慌てふためくことなく、「からだをまっすぐにし、頭を上に挙げなさい」と命じられています。なぜなら「贖いの日(復活のからだが与えられて神の国に入る日)が近づいた」という前兆だからです。そのときには、しっかり主を見上げ、主の言葉に立ち、主のご計画が実現する時を待ち望みましょう。


<29〜33節>

 パレスチナの人々は、いちじくの木の芽を見て夏の近いことを知りました。同じように、イエスが言われたことが起きた時には、神の国が近いという視点で世界を見ましょう。ニュースで見たこと、周囲に起きる出来事を見て、ただ気落ちしたり戸惑うのではなく、主が言われた通りのことが起きていると認めましょう。社会で起きている現実を、聖書に照らして受けとめましょう。

 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」。滅びゆく物に執着していくのか、それらを一つひとつ手放して、滅びることのない主のことばで生きていくのか、日々自分に問いかけましょう。


<34〜38節>

 終わりの時代に、人々はいよいよ希望を失います。漠然とした将来への不安、恐れがストレスとなり、放蕩や深酒に走り、世の煩いのために沈み込んでいきます。そのような時に、キリストが再び来ることがないように気をつけるよう主は忠告しています。むしろそのストレスを、祈りに変えていくように主は命じます。心の中のモヤモヤしたものを紛らわすために、放蕩や思い煩いに浸るのではなく、それらを祈りに変えていくのです。キリストの前に立つことができるように、「いつも油断せずに祈っていなさい」、これが終わりの時代に生きる私たちへの主のご命令なのです。

 人の肉の傾向は、一時的に不安を忘れさせることに向かいがちです。思い煩いに沈みがちです。でもそこでこそ、主を見上げるのです。祈りによって主に向かうのです。

 「何も思い煩わないで、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば神の平安があなたがたを守ります」と言われています(ピリピ4:6〜7)。私たちはすぐに思い煩う者です。主はその私たちの弱さをご存知で、このように勧めてくださっているのです。思い煩いに向かうのか、それを祈りに変えていくのか、日々その信仰の選択を迫られているのです。神は私たちの思いをすべてご存知で、あえて主に何でも話してほしいと願ってくださっているのです。本音の交わりをしたいと、主イエスの側で願ってくださっているのです。そして私たちの思い煩いを主に祈っていく時に、主は驚くべき神の平安で私たちを守ってくださるのです。神のご計画を知らされた者として、油断せずに祈り続けましょう。
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 7月9日
 メッセージ要約 主題:「あかしをする機会」

           ルカの福音書21:12〜19  三浦真信牧師

<12〜13節>

 迫害や、王たち総督たちの前に引き出されるということは、初代教会のクリスチャンたちも経験しました。ペテロたちが福音を語っていく中で、ねたみから捕えられ、留置場に入れられます。しかし主の使いが牢の戸を開き、今度は役人たちに連れられて使徒たちは議会に立たされました(使徒5:17〜32)。イエスが言われた通り、そこが使徒たちにとってキリストをあかしする機会となったのです。ペテロたちは、迫害の中で連れていかれた議会の場を、あかしをする機会として用いたのです。機会を生かして十分に用いたのです(エペソ5:16)。聞いた人の中では、反対した人も多くいましたが、議員や町の有力者たちの中から救われる人も起きてきて、また福音は広がっていきました。


<14〜15節>

 ペテロたちは迫害下で、イエスの言葉を思い起こしたことでしょう。あかしをする機会ですから、その時にはどう弁明するかを考えなくても大丈夫なのです。どんな反対者も反論できないようなことばを、主が与えてくださいます。ルカ12:12では、「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださる」と言われています。準備をすることが悪いわけではありません。キリストの希望について説明を求められた時には、いつでも弁明できる用意をしていなさいとも言われています(Tペテロ3:15)。不必要に恐れたり不安にならないようにと主イエスは教えてくださったのです。

 人々にあかしをする時には、聖霊が語るべきことを教えてくださいます。ですから、聖書の知識が足りなくても、信仰生活が短くても、あかしをする機会が与えられたら、与えられた機会を生かして、祈りつつあかししましょう。聖霊が助けてくださいます。主をあかししていく時に、聖霊の力を体験できるのです(使徒1:8)。その時その時に、達しえたところで聖霊の力を信じて語っていきましょう。


<16〜17節>

 迫害下では、このような家族が敵となることも起きてきます。そこまでいかなくても、一番理解してほしい家族と、キリストの恵みを分かち合えない寂しさを経験することがあります。語っても 反対されたり、キリストのことは語らないでほしいと拒否され憎まれることもあります。


<18節>

 殉教した人もこれまでたくさんいます。しかし主のみこころの時までは、髪の毛一筋も失われることはありません。キリストも、何度か反対者にいのちを狙われましたが、十字架の時まで反対者は何もすることができませんでした。


<19節>

 忍耐など自分にはないと思えるかもしれません。この忍耐は、独りで歯をくいしばってひたすら苦しみに耐えるということではありません。キリストが共に担ってくださるから、気がついたら通り過ぎることができるのです。キリストと共に担うくびきは、負いやすく荷は軽いのです(マタイ11:30)。

 あかしをする機会というのは、必ずしもあかしをしやすい時や、人々が積極的に耳を傾けてくれる時とは限らないのです。迫害下では、逮捕されて議会に連れていかれる時が、絶好のあかしの機会となったのです。どのような状況であっても、あかしの機会が与えられた時には、聖霊が語るべきことを教えてくださいます。私たちの知識や経験を超えて、聖霊が知恵のことばを与えてくださるのです。主が与えてくださった機会を生かして十分に用いましょう。
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 7月2日
メッセージ要約 主題:「すばらしい神殿が崩れる日」

           ルカの福音書21:5〜11  三浦真信牧師

<5節>

 エルサレムの神殿は、2回建てられました。ソロモンが建てた第1神殿は、紀元前586年にバビロン帝国に滅ぼされます。バビロン捕囚から帰還した人たちによって建てられた第2神殿は、第1神殿に比べると規模の小さいものでした。その後神殿は増築され、イエスの時代にはほぼ完成していました。この神殿は、ヘロデ大王が貢献していたため「ヘロデの神殿」と呼ばれています。ヘロデ大王は、立派な大理石の円柱や、純金製の大きなぶどうの木などを造りました。それを見た人々が、「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってある」と話していたのです。この「人々」は、イエスの弟子たちでした(マタイ24:1、マルコ13:1)。


<6節>

 イエスは、弟子たちが見とれている立派な神殿も、やがて崩される時がくると言われました。どれほど立派で美しい物も、人間の造った物は必ずいつか壊れ、消滅するのです。このイエスの言葉は、私たちの生き方に警鐘(けいしょう)を鳴らしています。すばらしい建物も、宝のように大切にしているものも、いつかは無くなる時が来ます。そのように認識しながら、地上のものに執着せず、たえず手放しながら生きていくようにしましょう。与えられたものは大切にしながら、でも永遠に続くものにしっかり心を向けて歩みましょう。

 また人間が造り出すものはどこまでも不完全であると認めることは、人を謙遜にします。 人の働きは不完全です。でも神の為さることは完全です。教会も、人の頑張りによってではなく、神が建てて導かれることを信じて祈り仕えましょう。


<7節>

 この弟子たちの質問は、神殿の中ではなく、少し歩いてオリーブ山の中腹で休んだ時に、夕映えに輝くエルサレム神殿を見下ろしながらしたものです(マルコ13:3)。この美しく荘厳な神殿が跡形もなく消滅するとしたら、「それは世の終わりに違いない」と思って、弟子たちは質問しました。イエスは、紀元70年のローマ軍によるエルサレム侵攻と、終わりの時を絡めながら答えます。


<8節>

 終わりの時の前兆として、偽キリストが大勢現れます。また世の終わりがいつ来るかを語る者も現れます。いつその時が来るかは、神以外は誰も知らないのです(マルコ13:32)。聖書が語っていないことを、あたかも聖書の言葉であるかのように語る者も現れます。そのような人たちに対してイエスは、「そんな人々のあとについて行ってはなりません」と警告しています。


<9〜10節>

 また戦争や暴動が起きます。それで終わりが来るわけではありません。戦争の悲惨な現状を見ると、世も末だと思われますが、それはまだ「初めに必ず起こること」なのです。


<11節>

 大地震、疫病、飢饉が起き、天変地異が起きます。今までにすでに起きていますが、これからも更に起きることです。

 このような時代にあって、福音宣教が急がれます。「そのうちいつかでいいだろう」と言ってはいられません。今がどのような時代であるかを、見極めなければなりません(ルカの福音書12:54〜56)。「雨雲や南風によって先の天気を予想できるのに、どうして今の時代の様を見て、のんきにしていられるのか?」とイエスは言われます。

 今は主なる神が忍耐しておられる時代です(Uペテロ3:9)。今を主のあわれみの時代と受け留めて、人々の救いのために祈り、できることをしていくように、主は私たちに願っておられます。私たちはすでに神の国の一員とされたのだから、古い自分に固執していないで、滅び行く魂のために心を砕いていきましょう。暗やみの勢力が働く悪い時代だからこそ、与えられた機会を十分に生かして、主の愛を伝えましょう(エペソ5:16)。
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