(2017年6月)

 ・ 6月25日
 ・ 6月18日
 ・ 6月11日
 ・ 6月 4日
 




 6月25日
メッセージ要約 主題:「主は私の羊飼い」

           詩篇23篇1:1〜6  豊村臨太郎伝道師

 詩篇23篇は、その内容からイスラエルの王ダビデが、生涯の終盤に人生を振り返って歌ったと思われます。

<1節>

 ダビデは天地を創られた「主」なる神様を「私の羊飼い」と、親しく呼びかけます。当時のパレスチナの環境は苛酷(かこく)で水や食べ物は限られていました。危険な動物や強盗もいました。良い羊飼いは、羊を常に安全な場所に導き、お腹いっぱいに食べさせ、敵から身を守りました。ダビデが神様を羊飼いに譬(たと)えるということは、同時に自分自身を羊に譬えているということです。羊は自己防衛力がなく、目が悪く、自我の強い動物です。

 ダビデは、自分の弱さを自覚し、神様がその弱さを満たしてくださる故に、「乏しいことがありません。」と告白したのです。2節に具体的な内容が語られています。


<2節>

 「緑の牧場」は、豊かな牧草地のことです。「伏させる」は、羊を寝かせて体をのばしリラックスさせるという意味があります。「いこいの水のほとり」は、「静かで心地の良い水辺」です。神様は、食べる、飲む、体を休めるなど、私たちの肉体的な必要を満たして下さるお方です。


<3節>

 続いてダビデは、心の満たしについて語っています。ダビデの人生は旅の連続でした。特に、敵に追われる逃亡の旅が多く、肉体的な疲れもさることながら、精神的な疲れも大きかったと思われます。そんな中で、主なる神様が「旅のガイド」として伴って下さり、「たましい」を癒し、「義の道」に導いて下さると告白しています。


<4節>

 「死の影の谷」は、「日のあたらない、深い谷底」のことです。「獣の洞窟」や、「死の危険のある場所」とも訳されます。つまり、死に直結するような試練を表しています。ダビデの人生は試練の連続でした。サウル王に命を狙われ、愛する息子に都を追われました。そのような苦しみや 失望にあっても、人生のガイドである「あなた(主なる神)が私とともにおられるから」、私は「わざわいを恐れない」と告白しています。クリスチャンの生涯にも、試練や苦しみがあります。しかし、神様が共にいて下さるから、決して失望に終らないのです。「むち」は、敵から守る道具です。「杖」は、目の悪い羊を導く道具です。神様は私たちの人生の旅を守る「羊飼い」であるとともに「ガイド」として歩んで下さるのです。


<5節>

 「敵の前で食事をととのえる」は、「祝宴をもうける」とも訳されます。神様は戦いのような人生の旅で疲れた旅人を、宿屋の主人のように受け入れ祝宴を開いて下さいます。今の私たちに置き換えるならば、敵が大勢いる戦いのような日々の中で、教会に足を運びます。礼拝は神様の祝宴です。御言葉の糧があり、御霊の油が注がれ、賛美の喜びの杯が溢れる場所です。神様は疲れ切った私たちを愛の御手で受け止めて下さいます。


<6節>

 「いつくしみ」は、「良い」「最良のもの」という意味があります。神様は私たちの必要を全てご存知で「最良のもの」を与えてくださいます。「めぐみ」は、エレミヤ31章3節にある「永遠に変わらない、約束に基づく愛」です。自分が努力して追い求めるのではなく、誠実な神様のめぐみが追いかけてくる。だから、私たちは、いつまでも、主の家(神様の臨在)に住むことができるのです。 <羊飼いなるイエス様> 新約の時代である今、主なる神様が具体的に見える人となって来て下さいました。それがイエス様です。イエス様は、ヨハネの福音書10章11節で、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言われました。羊飼いは、時に命がけで羊を守ったでしょう。しかし、あくまでも羊は家畜ですから、本来は自分の命を支えるものです。羊飼いが命を失ったら本末転倒です。しかし、イエス様はそのあり得ないことをして下さいました。十字架で命を捨てるほどに私たちを愛して下さったのです。それほど、大きな愛を注いでくださるお方が、いつも、私たちの人生を導いて下さいます。羊飼いなるイエス様と共に歩んでゆきましょう。
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 6月18日
メッセージ要約 主題:「感謝が溢れるささげ物」

           ルカの福音書 21:1〜4   三浦真信牧師

<1節>

 エルサレム神殿の「婦人の庭」と呼ばれる、ユダヤ人男女が最も多く集まる場所に、献金箱が置いてありました。イエスは神殿の中でも人が集まるこの場所で、よく神の国について語っておられました。ちょうど見栄を飾る律法学者たちの話をしていた時に(20:46〜47)、金持ちたち(多くは律法学者でしょう)が献金を献金箱に入れていました。


<2節>

 その中で「ある貧しいやもめが、献金箱にレプタ銅貨二つを投げ入れている」のをイエスはご覧になります。1レプタは、当時の銅貨で一番小さな額です。価値としては、この後イエスが「2レプタが生活費の全部」と言っているところから、今の日本円で数百円分であったと思われます。財産もなく、頼るべき家族もいない彼女が、生活費に相当する2レプタをささげたのです。額は小さくても、彼女にとっては命に関わる金額でした。


<3〜4節>

 イエスは、「わたしは真実をあなたがたに告げます」と言って、神の目からご覧になった真実を語ります。人は見えるところで、多くをささげている人たちがすごいことをしているかのように見がちですが、それが必ずしも真実ではないと主は言われます。私たちが見ているものと、神がご覧になるところは違うのです。人の目には、「これほど働いて、ささげて、立派なことをしていて素晴らしい」と見えても、必ずしもそれが真実とは限りません。真実は、人の心をご覧になる神のみがご存知です。  

 イエスが語られた真実とは、「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさんささげた」という内容でした。周囲の人たちは、生活に支障がない分をささげる中で、彼女は金額としてはわずかであっても、「それをささげたら今日生きていける保証がない」という2レプタをささげたのです。それが生活費すべてであったのです。  

 イエスは、「彼女のように生活費すべてをささげなさい」とおっしゃっているわけではありません。彼女は、誰からも強要されず、自主的に喜んでささげています。また人からほめられようとしてささげたわけでもありません。2レプタささげても、誰かがほめてくれるわけではありません。でも人の心も、その人の経済状況もすべてご存知の主は、彼女がどのような思いでささげたかを知っていてくださったのです。彼女の心は神に向かっていました。神への感謝から、神にささげたいという思いがあふれていたのです。  

 私たちも、主イエスが私たちを救うためにしてくださった十字架の恵みと献身的な愛に感謝をしてささげものをしましょう。また「ご自身を与え尽くしてくださったキリストの神に、私という存在を信頼して託します」という信仰によってささげましょう。  

 献金は、「これだけささげますから、良いことがありますように…」というものではありません。ただ神にささげることで結果として、自分の欲のためにお金を使うことが減ったり、お金の使い方が変えられて、経済的に祝福されていくことはあります。十分の一献金を始めた途端に、収入は変わらないのに、不思議に豊かになったという経験をします。第一にすべきものを優先していく時に、すべてがきよめられ整えられていく結果です。それはみことばでも言われている通りです(マラキ3:10)。  

 またパウロは、激しい試練と極度の貧しさの中で、喜びにあふれてささげるマケドニヤの諸教会の様子を報告しています(Uコリント8:1〜9)。主にある喜びがあふれて、自ら進んで、力に応じ(それ以上に)、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと(3〜4節)、まず自分自身を主にささげて(5節)、「恵みのわざ」(6〜7節)としてささげています。どこまでも「キリストの恵み」(9節)が根底にあります。キリストの恵みを知っている人は、ささげる時に喜びがあふれてくるのです。それは献金のことだけではありません。神のために奉仕をしたり、時間や労力をささげていく時、兄弟姉妹に仕えるために自分自身をささげていく時に、それは喜びとなって返ってきます。実践している人だけが味わえる喜びです。  

 旧約時代は、礼拝は動物のいけにえをささげることが中心でした。でも今はキリストがすべての人の罪の身代わりとなって犠牲の小羊として十字架上でささげられたので、私たちはキリストを通して礼拝をします。ささげ物をする献金は、今も礼拝のクライマックスです。ささげる時に、自分の今の信仰が問われるからです。今の主と自分の関係が問われるのです。主からの喜びがあるかが問われます。主に信頼して自分を明け渡しているかが問われます。私たちは礼拝ごとに、もう一度自分自身を主に信頼して明け渡していこうという献身の告白をするのです。ささげもの(献金)には、「この私をあなたに明け渡します、ささげます」という意味が込められているのです。  

 礼拝は、「自分のからだを、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげる」ものです(ローマ12:1)。聖(きよ)さは、どこまでもキリストにあります。キリストが私たちのからだを贖ってくださり、すでに聖いものとしてくださったのです。そのことを信じて、「私のからだ、私の存在はあなたのものです」という告白を礼拝ごとにささげましょう。   
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 6月11日
召天者記念礼拝 メッセージ要約 主題:「天にある永遠の家」

           コリント人への手紙第二4:16〜5:1   三浦真信牧師

<16節>

 パウロは、苦難の中でこそ神の測り知れない力を体験できるのだから、「私たちは勇気を失いません」と苦難の中にある人たちを励ましています。私たちは、苦難の時に弱くされ、自分の力でどうしてよいかわからないような状況に陥ります。その時に「土の器」のような脆(もろ)く欠けだらけの存在であることに気づきます(4:7)。でもキリストという「宝」の輝きが、その欠けた所から輝き出るのです。測り知れない力が、神から出ることを知るのです。ですから、「四方八方から苦しめられても」「途方に暮れても」「迫害されても」「倒されても」大丈夫なのです(4:8〜9)。そこが神の測り知れない力を体験する場所となっていきます。  

 先に召された信仰の先輩たちも、苦難の中でキリストに出会い、また苦難を通して、測り知れない神の力を体験してきたのです。ですから私たちは苦難の中でも勇気を失いません。  

 パウロは、「外なる人」と「内なる人」の違いを明確にします。外なる人(地上の肉体)は、「土の器」(4:7)であり「死ぬべき肉体」(4:11)です。外なる人は、肉体の死に向かって、日々衰えていきます。そこに期待していると、かえって失望していくことになります。しかしありがたいことに、「内なる人は日々新たにされています」。「内なる人」とは、キリストによって私たちの内に新しく造られたいのちです。外なる人は衰え弱ったとしても、キリストは私たちの内側を日々新しくしてくださるのです。


<17節>

 1世紀半ばに伝道者として活躍したパウロは、いのちの危険に晒(さら)されるような迫害を受け続けました。そのパウロが、「今の時の軽い患難は」と言い放ちます。決してパウロが経験していたことは「軽い患難」ではありませんでした。しかしやがて与えられる「測り知れない、重い永遠の栄光」に比べたら、「軽い」のです。この「測り知れない」は、4:7でも使われていますが、ここでは「測り知れない上に測り知れない」と原語はなっています。私たちに約束されている御国で与えられる永遠の栄光は、測り知れない上に測り知れないほど重いものなのです。  

 この「重い永遠の栄光」は、頑張って苦難を乗り越えたら与えられるというものではありません。人間の努力や立派な働きによって与えられるのではありません。それは神の子イエス・キリストを信じることによってのみ与えられるのです。神との間に大きな障壁となっていた人間の罪の身代わりに、キリストは十字架で死なれ三日目に死からよみがえりました。このキリストを信じるなら、どのような人も救われるのです。測り知れない重い永遠の栄光が与えられるのです。召天された人々は、試練の中でこのすばらしい栄光を思いながら「今の時の軽い患難」と見て通り過ぎて行ったのです。


<18節>

 そのような測り知れない重い永遠の栄光が与えられるのだから、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」と、パウロは私たちの目を留めるべきものをしっかり示します。やがては衰え滅びていく外なる人、今見えるけどいつかは過ぎゆく一時的なものに心とらわれ、振り回されていく生き方をやめて、日々新しくされていく新しい人と、やがて受ける重い永遠の栄光にしっかり目を留めていきましょう。見えるものはみな一時的なもので、やがては消えゆくものです。この一事がはっきりわかるだけで、どれだけ私たちの心の重荷が軽くされることでしょう。見えるものが永遠に存在するかのように、また永遠に自分の手の中にあるかのように思うから、持ち物や人、日々起きてくる出来事に心がとらわれていくのです。「見えるものは一時的」なのです。「見えない、いつまでも続くもの」に目を留めましょう。  

 パウロは、自身も目に見えるものや、外なる人にとらわれる弱い「土の器」であることを認めています。自分の肉体の弱さを何度も取り去ってほしいと神に祈ってもいます(Uコリント12:7〜9)。でもそこからたえず、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」と、「私たち」と自分自身も含めて、たえず目を留める方向を変え続けていく生涯であることを告白しているのです。  

 私たちは、今は「外なる人」と「内なる人」との緊張関係の中で揺れ動きながら、でもキリストが日々新しくしてくださる「内なる人」を喜び、目には見えないけど永遠に続くものに、信仰によって向きを変え続けていくのです。


<5:1>

 パウロは、この地上の肉体を「地上の幕屋」と呼び、肉体の死後に与えられる復活のからだを、「神の下さる建物」と表現します。遊牧民は、たえず杭を抜きながら移動して天幕生活をしていました。どこも仮の宿として、一時的な住まいとしていたのです。同じように、地上の肉体は一時的なものです。また天幕のように不安定なものです。しかし神が用意して下さっている復活のからだは、永住できるしっかりとした「建物」なのです。永遠の御国で生きるための復活のからだは、衰えることも病気になったりケガをすることもありません。死の源である罪とも一切関わりがなくなります。その復活のからだは、「人の手によらない、天にある永遠の家」なのです。  

 私たちの本当の国籍は、天にあります(ピリピ3:20〜21)。衰えていく「卑しいからだ」をやがて脱ぎ捨て、「ご自身(キリスト)の栄光のからだと同じ姿に」私たちは変えられるのです。そこにいつも心の目を向けましょう。今与えられている日々の生活も、見えるものがすべてで永遠に続くかのように錯覚しないように気をつけましょう。すべてはいつか主にお返しするものであることを心に留めながら軽やかに歩みましょう。
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 6月4日
ペンテコステ礼拝 メッセージ要約 主題:「聖霊のバプテスマ」

           使徒の働き18:24〜19:7   三浦真信牧師

 エペソにいた時のアポロも、またパウロがエペソに来た時に出会った弟子たちも「聖霊のバプテスマ」を知らず、「ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。」(18:25、19:3)

 アポロは、エペソにいた時に「霊に燃えて、イエスのことを正確に語り」ました。しかしそれを聞いていたプリスキラとアクラの夫婦は、確かにアポロが雄弁に語っていましたが、何か足りなさを感じました。そこでアポロを家に招き入れて、「神の道をもっと正確に説明しました」。旧約聖書で預言され、イエスご自身も弟子たちに伝えていた助け主聖霊が、ペンテコステの日に弟子たちに注がれたことを伝えたのでしょう。そして聖霊を知り、聖霊に満たされたアポロは、エペソの人たちの推薦を受けてアカヤ地方のコリントに渡り、力強く聖書によってキリストを伝えました。

 またアポロがパウロの後を継いでコリント教会に来てから、パウロはエペソに来ます。そこで 12人のパブテスマのヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けた人たちと出会います。パウロは、ヨハネが自分の後に来るイエス・キリストを人々が信じるようにと、悔い改めのバプテスマを授けたことを彼らに伝えます。彼らは、イエスこそ罪からの救い主であることを聞いて信じ、「イエスの御名によってバプテスマ」を受けました。そしてパウロが彼らに手を置くと、彼らは聖霊を受けました。

 悔い改めのバプテスマを受けて終わりではなく、アポロやエペソの12人のように、聖霊をはっきり受けることが大事です。確かに聖霊によらなければ、イエスを主と告白することはできません(Tコリント12:3)。ですからキリストを信じることも聖霊の働きによるのです。「主と告白する」とは、キリストを唯一の罪からの救い主と信じ告白することと、イエスを自分の何よりも従うべき主人として信じ告白することです。聖霊は、信じる時だけではなく、信じたあともその救いの確信を深めてくださいます。またさらにキリストのことばで生きるようにと導いてくださいます。そのように信仰生活を深めるために、聖霊を受ける必要があります。さらに聖霊に満たされ続ける必要があります。聖霊を受けると、みことばの聞き方が変わります。キリストのことばに従いたいという思いが強くなります。自分の思いよりも、キリストが喜ばれる道を歩みたいという願いが起きてきます。洗礼を受けただけで留まっていたら、形だけはキリストのことばを聞いていても、生き方まで変えるものとはなっていきません。

 聖霊をはっきり受けましょう。過去の体験に留まることなく、さらに御霊に満たされ続けましょう(エペソ5:18)。御霊に満たされることは、お酒に酔うことよりも解放されるのです。そのような御霊の満たしを受けましょう。そして御霊によって歩み続けましょう(ガラテヤ5:16〜17)。肉(生まれながらの古い自分)の願うことは御霊に逆らい、二つは互いに対立して、本当に自分のしたいことができなくなります。肉の欲望を生かそうとすると、かえって苦しくなるのです。ですから御霊によって歩みましょう。「肉の思いは死である」と認めて、いのちと平安を与える「御霊の思い」を求めていきましょう(ローマ8:6)。
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