(2017年5月)

 ・ 5月28日
 ・ 5月21日
 ・ 5月14日
 ・ 5月 7日
 




 5月28日
礼拝メッセージ要約 主題:「人間の弱さも用いる神」

           士師記14:1〜9 三浦真信牧師

<1〜2節>

 青年になったサムソンは、当時ペリシテ人の町になっていたティムナに行きます。ティムナは、ツォルア(13:25)から西に10キロほど離れた所にあり、海抜が低いので「下って行った」という表現になります。この「下って行く」という動詞は繰り返し使われています(1,5,7,10,19…節)。地理的な意味だけではなく、サムソンの霊的状態をも表しています。サムソンがペリシテ人の地にいく時には、霊的にダウンし問題を起こし、またイスラエルに戻ると収束するということが繰り返しありました。

 サムソンがティムナに下った理由は、最初から結婚相手を探すためではありません。当時イスラエルがユダヤ人以外の民族と結婚することは、宗教上の理由から禁じられていました。しかもサムソンは、ナジル人として生まれた時から神にささげられた人でした(13:4〜5)。恐らくサムソンの中に、ペリシテ人の手から自分たちの民族を救出しようという願いが起き、ペリシテ人の町であるティムナに偵察するために近づいたのでしょう。しかしそこで「ある女を見て」一目ぼれしてしまったのです。話したわけでもなく、ただ見ただけで、妻にすると決めて両親に話しているのです。


<3〜4節>

 両親はサムソンから結婚の報告を受け、「なぜユダヤ人女性がたくさんいるのに、わざわざ禁じられている別の民族の女性と結婚しなければならないのか」と反対します。サムソンの両親は、常識的にまた神からの警告に従う思いからも、このサムソンの結婚に反対しました。しかし後になって「それが主によることだ」とわかります。イスラエルを、サムソンを通してペリシテ人の手から救い出すきっかけとして、サムソンの非常識な行動や頑なささえも神は用いられたのです。


<5〜6節>

 最終的には、両親が根負けして、サムソンの好きになった女性の両親に婚約の合意をつけにサムソンと行きます。その途中か、あるいは両親が女性の両親と会っている時か、サムソンはひとりでティムナのぶどう畑に行きます。ナジル人であるサムソンがぶどう畑に行くということは、適切な行動ではありませんでした(民数記6:3〜4)。サムソンは、そこで一頭の若いライオンに襲われます。このとき「主の霊が激しく彼の上に下って」サムソンは素手でライオンを引き裂きます。サムソンは、行ってはいけないぶどう畑にいたことを知られないためか、このことを誰にも話しませんでした。


<7〜9節>

 ここで初めて、サムソンはティムナの女性と話します。そして彼女もサムソンのことを気に入りました。数日後サムソンは、ティムナに彼女を妻とするために下り、ライオンの死体を見ようと途中ぶどう畑に寄りました。するとミイラ化したライオンのからだに、蜂の巣ができていました。サムソンは、その巣の中にある蜜をかき集め、歩きながら食べました。また後にその蜜を、ライオンのからだからとったことは内緒にして両親にも与えて食べさせました。死体に近づいてはいけないというナジル人のおきてをサムソンは破り(民数記6:6)、また両親をも汚すことになります。


 不妊であったマノアの妻に主の使いが現れ、神が男の子を夫婦に授けると予告しました。その通り生まれたサムソンを、ナジル人として神にささげるよう命じられ、マノアと妻はそのようにサムソンをささげました(13:1?5)。

 しかしそのサムソンが成人すると、異邦人であり敵国でもあるペリシテ人の娘を一目見ただけで好きになり、結婚すると言って両親を困らせます。そして頑なに自分の思いを貫き通しました。またナジル人として禁じられていることを平気で破っていました。それでも神はサムソンを、ペリシテ人の手から救出する士師として選ばれたのです。

 傍から見えれば無謀とも思えるこの結婚さえ、主のご計画の中にあったことは驚きです(4節)。最終的にこの結婚自体は、上手くいかずに終わりを迎えます。しかし人間の愚かさ、頑なさ、どうしようもなさをも用いて、神はご自身の計画を着々と進めていかれるのです。人間の弱さを含め、すべてのことを益と変えることが神にはおできになるのです(ローマ8:28)。

 このように人間的にはどうしようもないサムソンですが、ライオンが襲って来た時には主の霊が激しく彼に下って、サムソンを神は守ってくださいました。何の武器も持たずにサムソンは、ただ主の霊によって、ライオンを打ち倒すことができたのです。「頑固で言うことを聞かないどうしようもないサムソンだから、もう助けない」とは言わずに、神はライオンから彼を守ってくださったのです。

 彼の行動は、理解しがたいところが多々ありますが、それでも彼は神を信頼していました。サムソンは、神を信じていたからこそ、ライオンが襲って来た時にも、逃げることなく素手でライオンに向かっていきました。へブル書記者は、サムソンを信仰の人として数えています(へブル11:32〜34)。

 私たちがどのような人間であっても、神を信じる者に主の霊は今も注がれます。御霊は、律法を行う者ではなく、信仰をもって神の言葉を聞く者に与えられます。神の奇跡は、信じる者たちの上に起きるのです(ガラテヤ3:1〜6)。私たち人間の何かによらず、聖霊はどのような人にも注がれます。私たちの足りなさや、愚かさにかかわらず、求める者に主の霊は激しく下るのです。主がそのようにしてくださると信じて、聖霊を求め続けましょう。私たちの弱さや欠点さえも用いて、神はご自身の計画を進めてくださることを信じましょう。  
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 5月21日
礼拝メッセージ要約 主題:「神の子キリスト」

           ルカの福音書20:41〜47  三浦真信牧師

<41節>

  キリストがダビデの子孫として生まれることを、イスラエルの人たちは信じていました。それは旧約でも預言されていたことです(イザヤ11:1〜5、エレミヤ23:5〜6)。

 事実イエス・キリストは、ダビデの子孫としてお生まれになりました(マタイ1:1〜16)。

 ただ問題は、「キリストがダビデの子として生まれる」と言う時には、「あのダビデ王の時のような偉大な王国を建てるキリスト」という理解であったことです。ダビデは、ユダヤ人にとって最も尊敬する王です。ダビデの時代にイスラエルは繁栄し、他の国々にもその強さをアピールしました。ですから人々は、あのダビデ王のような偉大な人物としてのキリストを思い描いていたのです。

 またイエスが宣教しておられた頃は、異邦人であるローマにユダヤ人たちは支配されていました。それを屈辱と思っていた彼らは、なおのことローマの統治から解放する王としてのキリストを求めていたのです。イエスの弟子たちでさえ、キリストをそのように理解していました。


<42〜44節>

 そのような間違ったキリスト理解をしている弟子たち群衆たちに、イエスはキリスト預言の詩篇110篇ダビデの歌を引用して説明します。
 「主は私の主に言われた」の最初の「主」は、ヘブル語原語は「ヤーウエ(神)」で、後の「主」は「アドナイ(主)」という言葉が使われています。つまり直訳すると「神は私の主に言われた」となります。「アドナイ」は、自分よりずっと身分の高い人(王など)に使われる言葉でした。また人々が、「神の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)という十戒の言葉を曲解して、本来の「ヤーウエ(神)」という言葉を使うことすら恐れたため、代わって「アドナイ」を「神」という意味で使うようになりました。ですから、ダビデは、自分よりずっと後に生まれてくる子孫のキリストに、「アドナイ」という言葉を使ったことになります。ダビデ自身が、そのように自分の子孫のことを「アドナイ」と呼んでいるということは、ダビデもキリストを単なる偉大な人間としてではなく、神と等しい方としてすでに「主(アドナイ)」と呼んでいたことを、イエスは説明したのです。そしてそのキリストは、終わりの時に完全に「敵(サタン)」を足台とする」方です。またそれまで「神の右の座に着いている」神と等しい方なのです(Tコリント15:22〜26)。

 キリストをどのような方と信じるか、それは今も問われています。実は当時の人々のように、キリストを人間の延長として見たり、自分が偉くなったり成功するためにキリストを利用するような求め方をしていることがあるのです。たしかにキリストを信じていくときに、成功したり有名になることもあります。社会でも活躍しているクリスチャンは世界中にたくさんいます。しかしそれを目的としてキリストを求めていくなら、必ず挫折する時がきます。弟子たちも、キリストが捕えられて十字架にかけられた時に、挫折しました。イスラエルの王になるどころか、悲惨な死を遂げるキリストを、受け入れることができませんでした。自分たちが描いていたキリストのイメージが崩れ去ったのです。キリストについて行く時に、誰もがこの十字架を通ります。「キリストを信じてついてきたのに、なぜこのようなことが起きるのか?こんなはずではなかった…」ということが起きてくるのです。そこで初めて、キリストが神の子であることをはっきり受け取ります。思い描いていた自分勝手なキリストではなく、聖書で言われている通りの「神の子キリスト」を受け取らされていくのです。自分勝手な思いは一度壊された方が良いのです。つまずきの十字架を通って初めて、死からよみがえられた復活のキリストに出会えます(Uコリント1:8〜10)。


<45〜47節>

 イエスは弟子たちに、律法学者たちの偽善に気をつけるように警告されました。神を信じると言いながら、彼らは神ではなくいつも人の前にいました。神よりも人のことを気にしていました。神に喜ばれるよりも、人に喜ばれ気に入られることを求めていたのです。

 ですから、長い衣(律法学者であることが一目でわかる制服)をまとい、広場であいさつされることや上席に座ることを好みました。やもめ(未亡人)を助けるふりをして近づき、その財産を食いつぶし、見栄を飾るために長い祈りをしました。

 神の御前に立たず、いつも人に良く見せ、人からの栄誉を求めていた律法学者たちは、神のみこころなどどうでもよかったのです。それでいて、信仰深いふりを上手にしていました。「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」とイエスは言われました。神が遣わしたキリストを、神の子として受け入れず、その言葉に従おうともしない彼らは、結局神の前には立たず、神のみこころも損なっていながら、神に従うふりをしていたのです。人に良く見せることで、神にも認められていると思い込んでいたのです。パウロも、「人の歓心を買うことを優先しているだけなら、キリストのしもべとは言えない」(ガラテヤ1:10)と言っています。

 私たちが神の前に自分を装い、偽っていると、このように表面を覆い隠す偽善に陥ってしま (裏面に続く) います。神の御前に立つときには、自分の真の姿が露にされます。そこで汚いドロドロとしたものが自分の中にあることを知らされます。その心にあるものをそのまま率直に祈っていく時に、そんな汚れた者をも見捨てず、受け入れてくださるキリストの愛がわかってきます。神の御前には、良い子ぶる必要はないのです。ふりをしても、神には全部お見通しです。神に良く見せようとする必要はありません。健康なふりをする必要もありません(マタイ9:12〜13節)。神はいけにえより、あわれみを好むのです。「良い子でないと、神にだめ印を押されてしまう」と思っていると、偽善に陥るのです。素のままの自分を差し出して、その私を受け入れてくださる、また必要なら変えてくださる神の無条件の愛に触れていく時に、解放され楽にされていきます。神の前にも人の前にも、少しずつ気負わずにいられるようになります。

 キリストは、偉大な人間ではなく、神の子です。神の子だからこそ、私たちの罪を完全にきよめることができ、神の子だからこそ死からよみがえりました。神の子だからこそ、終わりの時に完全に悪魔を封じ込めることがおできになるのです。

 今キリストをどのような方と信じついて行きますか?
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 5月14日
礼拝メッセージ要約 主題:「神の子ども〜sons of God〜」

           ルカの福音書20:27〜40  三浦真信牧師

<27節>

 サドカイ人(ユダヤ教のサドカイ派)は、モーセ五書(創世記〜申命記)だけを信仰の基準として受け入れていました。そしてそのモーセ五書には復活の教えがないとして、死者の復活を否定していました。彼らは、自分たちの主張を正当化するために、あえてイエスに質問をしてきたのです。


<28節>

 彼らは申命記25:5〜6を引用しています。子どもがいないで夫が死んだ場合に、その夫の兄弟が妻と結婚し、子孫を残すために、生まれてきた最初の男の子に死んだ兄弟の名を継がせることになっていました(創世記38:1〜11も参照)。


<29〜33節>

 7人の兄弟がいて、長男の妻に子どもがいないまま申命記の言葉通りに次々に夫に先立たれ、どの兄弟との間にも子どもがいないまま妻が死んだ場合に、もし死んだ後に復活するなら、その妻は誰の妻になるのかと、サドカイ人たちが質問したのです。このような問題が生じるから、復活があるはずがないし、あってはならないと言いたかったのでしょう。


<34〜36節>

 サドカイ人の質問に対してイエスは、「復活後に入る神の国では、結婚や性というものは無い」と言われました。地上においては、人は皆死ぬので、子孫を残すためにも結婚、性が必要です。しかし復活後の御国においては、「もう死ぬことができない」ので、子孫を残す必要がなく、結婚という制度もなくなるのです。

 「彼らは御使いのようであり」とは、容姿が御使いに似ているということではなく、結婚や性が無いということにおいて、御使いのようであるということです。御使いと違うのは、「復活の子として神の子ども」であるということです。御使いは死を経験しないので、復活も経験しません。しかしキリストを信じる者たちは、肉体の死を経験しますが、同時に死からの復活も経験するのです。また御使いは「神の子」ではありません。神に仕える存在です。しかしキリストを信じる者たち は、「神の子ども」となるのです。この「子ども」は、原語フィオス(英語のson)の複数形になっています。つまり神の国の資産を受け継ぐ子どもとなるのです(Tペテロ1:3〜4)。


<37〜38節>

 出エジプト記3:6に、このモーセのことが記されています。モーセが荒野に逃亡して、そこで仕事をしている時に、燃える柴の中から主がモーセに語られた言葉です。あえてサドカイ人たちが敬っているモーセの出来事をイエスは引用しました。そしてここにもしっかり復活のことが記されていることを示されたのです。

 モーセの時代には、アブラハムもイサクもヤコブも死んでいます。でも神はモーセに、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばせました。「神は死んだ者の神ではありません」と、神は生きている者の神です。アブラハム、イサク、ヤコブは、肉体は死にましたが、復活して神の前には生きているのです。モーセ五書にも、復活を示す言葉が記されているのです。旧約聖書の他の箇所にも(詩篇16:10など)、復活を示す言葉が沢山あります。新約聖書の光を受けて、それらが復活を示していることがさらに明確になりました。


<39〜40節>

 律法学者パリサイ人たちは、サドカイ人とは対称的に復活を信じていましたので、「先生。りっぱなお答えです」と言いましたが、サドカイ人たちはそれ以上質問せず立ち去っていきます。

 結婚や性は、肉体の死がある地上においてだけあります。もう死ぬことがなく子孫を残す必要もない復活後の神の国では、結婚や性はなくなります。夫婦や親子、家族や親せきという関係もなくなります。決して地上の延長で、神の国を考えてはいけないのです。地上における夫婦や親子も、神の国においては「神の子ども」と皆なるのです。「〜家」とか、「〜さんちのお子さん」はなくなり、皆「神の国のお子さん」になるのです。大きな神の家族の一員となるのです。それは地上の「キリストのからだ」においても同じです。ただ地上の関係は、まだ罪の残骸があり、肉が働くので、互いに傷つけあったり不和が生じることもあります。でも復活後の御国においては、罪の残骸が丸ごと取り去られますので(栄化)、完全な良い関係に変えられます。みなキリストを長子(長男)とする神の家族の兄弟姉妹となるのです(ローマ8:29)。

 神は、家族を社会の基盤とし、互いに助け合っていくようにされました。しかし罪の毒にやられた人間は、神が祝福されたものを歪め、壊していくことしかできないのです。かえって夫婦関係係や親子関係で悩み、性のことでも悩むことになります。しかし復活後の御国においては、すっきりと「神と、神の子どもら」という関係だけになります。

 復活後の御国における立場や関係を信仰の目で見るなら、地上のあらゆる人間関係や自分の生き方を整理することができます。地上の教会は、肉が働くために不完全です。それでも復活後の御国における関係が、少しでも実現していくことを願い求めていきましょう。自分の親族、家族を顧みながらも(Tテモテ5:8)、御国に続く「神の子ども」「神の家族」という関係が、キリストのからだなる教会にも現れますように、祈り求めましょう。
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 5月7日
児童祝福礼拝(賛美礼拝)メッセージ要約 主題:「主の救いを見よ」

           歴代誌第二20:1〜22   三浦真信牧師

 イスラエルの国の王さまヨシャパテは、とっても恐怖を感じて悩みはてる経験をしました。私たちがどうしてよいかわからなくて悩むときにどう乗りこえたらよいかを、聖書は教えています。  

 ある日アラムという国からたくさんの兵隊さんたちがイスラエルを攻撃(こうげき)しようとイスラエルに近づいてきました。その人数の多さに、ヨシャパテ王はびっくりしてしまいます。そしてとても怖くなってイスラエルの国じゅうの人たちに呼びかけて、みんなで心を合わせてお祈りしました(1〜4節)。  

 ヨシャパテ王は、「神さま、あなたは力強い方で、だれもあなたに抵抗することはできません。私たちの力では、立ち向かってくるアラムの国に勝つことはとてもできません。どうしたらよいかわからず、ただ神さまにお祈りするばかりです」と祈りました。大人も子どもも、みんないっしょに神さまに必死でお祈りしたのです(5〜13節)。  

 そのようにみんなで心を合わせて真剣(しんけん)にお祈りしていた時に、アサフ族(聖歌隊のメンバーT歴代誌25:1〜2)のヤハジエルという神さまに忠実な人に、神さまの霊が注がれました。そしてヨシャパテ王とイスラエルの人たちに「アラムのたくさんの兵隊さんたちを怖がってはいけません。落ち込まなくてもいいのです。この戦いでは、神さまが戦ってくださいます。神さまがどのようにして皆さんをアラムの攻げきから助けてくださるかを見なさい。神さまがあなたたちといっしょにいてくださるから、安心して戦いに出て行きなさい」と神さまのことばを伝えたのです(14〜17節)。  

 ヨシャパテ王とみんなは、そこで神さまの前にひれふして神さまを礼拝しました。そしてヨシャパテ王は立ち上がり、「ヤハジエルを通して神さまが言われたことを信じて戦いに出かけましょう。神さまが勝たせてくださると約束したことを信じましょう」と人々に命じ、神さまを賛美する人たちをイスラエルの兵隊さんたちの前にならばせました。そしてその人たちが神さまを賛美しながらアラムの兵隊さんたちのいるところに向かって前進していったのです。すると神さまが送った別の兵隊さんたちがアラムの兵隊さんたちをやっつけてくれました。イスラエルの国は、ぜんぜん戦わないでアラムの国に勝ったのです。  

 さてイスラエルの国は、どのようにしてたくさんの兵隊さんがいる強いアラムの国に勝つことができたのでしょうか?

@ みんなで心を合わせて必死でお祈りしました。

 とても怖かったけど、大人も子どももみんなで神さまに「助けてください!」といっしょにお祈りしました。神さまはそのお祈りにこたえてくださり、イスラエルを危険から救ってくださったのです。

A 神さまのことばを信じて一歩ふみだしていきました。

 (神さまの霊が注がれたヤハジエルを通して)神さまが言われたことを信じて、戦いに向かっていきました。神さまのことばを聞いたあとに、じっとしていたのではありません。信じたら、信じた通りに行動していきましょう。一歩踏み出してみましょう。そうしたらあとは神さまがいっしょにいて助けてくださいます。戦ってくださるのは神さまです。神さまのことばを信じて出て行くと、神さまが救ってくださることを見ることができるのです。

B 戦いの前に神さまを礼拝しました。

 ヨシャパテ王とイスラエルの人たちは、アラムの国と戦う前に神さまを礼拝し、また戦いに向かっていく時も賛美する人たちが前を歩いて進んでいきました。神さまを礼拝し、神さまを賛美しながら進んだので、実際には戦わないでアラムに勝ったのです。神さまを賛美し、神さまのことばを聞き、神さまを礼拝することこそ力です。毎週(毎日)礼拝をしながら、私たちは神さまから力をいただき、勝利を受けているのです。だから礼拝を大切にしましょう。礼拝こそ、私たちの本当の敵である悪魔との戦いの場所です。礼拝を通して毎日生活の中で起きてくる戦いに勝利を宣言することができます。生活の場所(家庭、学校、仕事場など)は、神さまの救いを見る場所なのです。
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