(2017年4月)

 ・ 4月30日
 ・ 4月23日
 ・ 4月16日
 ・ 4月 9日
 ・ 4月 2日
 




 4月30日
礼拝メッセージ要約 主題:「罪とがを赦された人」

           詩篇32編   三浦真信牧師

 この詩の作者ダビデは、イスラエルでは有名な王様です。彼は部下の妻と不倫関係に陥り、彼女の夫を戦いの最前線にわざと送り出して死なせるという罪を犯しました(Uサムエル11〜12章)。その罪を認めるまでは、誰にも言わずに黙っていました。しかし黙っていた時には「一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました」と告白しています(3節)。罪を隠している時には、外側は平然を装っていても、心の中ではどうしようもないうめき、葛藤があるのです。隠しているつもりでも、神はすべてをご存知です。神は私たちのすべての行動を見ておられ、陰でささやいた会話も聞いておられます。人の心の奥底までも知っておられます。どれほど上手に隠しても、神の前にはすべてが露になっています。根本的罪の解決なしには、神の怒りの御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり続ける人生を歩むことになります(4節)。

 ダビデの場合は、預言者ナタンにその罪を指摘され、自分の罪を認めることができました。自分の間違いを指摘してくれる人が周りにいる人は幸せです。「この人には何も言えない」と言われて、当たり障りのない良い事ばかり言う人しかいないなら、それは不幸です。聖書は、人間の罪の姿を赤裸々に記しています。それは他人事ではなく、すべて自分自身の真の姿を照らしだします。聖書を通して、神は私たち一人ひとりの本当の姿を鏡のように写し出してくださるのです。

 ダビデ王は、預言者ナタンの指摘により、自分が部下(ウリヤ)とその妻(バテシェバ)にした (裏面に続く) 罪を認めて告白しました。それによって痛みは伴いましたが、罪を赦され、罪のとがめから解放されるという経験をしました(5節)。

 罪を告白するとは、その罪を捨てることです(箴言28:13)。その罪にしがみついている時は、罪として神に告白しようともしません。神に告白し続けていく時に、神ご自身が罪をうしろにしていくようにしてくださるのです。

 私たちの苦しみの根本原因は、罪のとがめから来ています。将来の不安や、人間関係の悩み、様々なことで悩んでいるようですが、その根底には過去の罪や何かに対する罪悪感が、心に重くのしかかっているのです。多くの人は、それを見ないように、考えないように蓋(ふた)をしています。突き詰めた時に、解決する方法を知らないからです。神の子イエス・キリストは、その罪の苦しみから、罪のとがめから救い出すために神から遣わされた方です(Tヨハネ1:7〜2:1)。私たちの罪の代わりに十字架で血を流し死なれたキリストは、私たちをすべての罪からきよめることがおできになります。きよい神の前に立つときには、「私に罪はない」と誰も言うことができません。それは「自分を欺き」、真実な「神を偽り者とする」ことになります。もし罪が露(つゆ)にされるだけでしたら、人は苦しくて生きていくことができません。でも罪を犯すしかない私たちを、「神の御前で弁護してくださる方、義なるイエス・キリスト」がいてくださるから、大丈夫です(Tヨハネ2:1)。キリストを信じる者は、決して罪に定められることはありません(ローマ8:1)。

 神にそむきの罪を赦され、罪をおおわれた人のことを、ダビデは「幸いないことよ」と言っています(1〜2節)。これは「何て幸せな人だろう!」と、正に「幸せ」とは、神に罪を赦されることだと、感嘆して繰り返し叫んでいるところです。幸せとは、健康であること、裕福であること、家族安泰であることと思いがちですが、聖書が伝える幸せは、正にキリストを通して神に罪を赦されることなのです。それなしには、すべて一時的なことで、いつかは通り過ぎていくことです。  

 神は人間一人ひとりを、目的をもって造られました。神に罪を赦された時に、神は本来の私たちの生きる目的や意味を教えてくださいます。罪を悔い改め、神の赦しを受け取った者たちに、神は「行くべき道」を教えてくださいます(8節)。「目を留めて助言を与えて」くださいます。神に目を留めていただき、行くべき道を教えていただけるなら、私たちは先のことをむやみに恐れる必要はありません。神が導いてくださることにただついて行けばよいのです。神に罪赦された時から、神は私たちの人生の舵(かじ)をとってくださいます。安心してこの方についていきましょう。キリストの仲介による罪の赦しを、たえず受け取り、感謝をささげましょう。
 ページの先頭に戻る

 4月23日
礼拝メッセージ要約 主題:「神に捧げる祝福」

           士師記13章   三浦真信牧師

<1節>

 12士師の最後となるサムソンが登場します。サムソンは、エフタと同時期に士師として活躍しました(10:6〜7)。エフタはヨルダン川東のギルアデ地方でアモン人と戦い、サムソンはダンとペリシテ人の町々で、イスラエルをペリシテ人から救出します。


<2〜5節>

 サムソンの父マノアの妻に主の使いが現れます。彼女は不妊のため子どもを産んだことがありませんでした。主の使いは、その彼女がみごもり男の子を産むと予告します。  

 そしてその子をナジル人としてささげるように命じます。ナジル人については、民数記6章に記されています。ナジール(聖別された者)として、

 @ ぶどう酒や強い酒を断つ(民数記6:3〜4)
 A 聖別期間中は髪を切らない(民数記6:5)
 B 死体に近づかない(民数記6:6〜8)
という規定がありました。  
 @Aに関しては、ここでも命じられていますが、Bの代わりに「汚れた物をいっさい食べてはならない」とここでは命じられています。これはレビ記11章で言われていることです。旧約の時代は、イスラエル人すべてに対して命じられていたことです。後に神はすべての食べ物をきよいとされました(使徒10:9〜16)。

 神へのナジル人としてささげられた彼が「イスラエルをペリシテ人の手から救い始める」と、主の使いは告げました。


<6〜16節>

 マノアの妻は、夫に主の使いのことを話します。そしてマノア自身も主の使いに会い、妻が聞いた通りのことを主の使いから聞きます。しかし「主の使いである」とは知りませんでした。


<17〜21節>

 主の使いは、マノアから名前を聞かれたので、「わたしの名は不思議という」と答えます。神ご自身が、しるしと不思議を行われる方です。そして主の使いも、マノアと妻が見ている所で不思議なことを行い、祭壇の炎の中を上っていき消えました。そこで彼らは、主の使いであることを知り、ひれ伏します。この不思議な出来事を通して、主の使いが語られた不思議な予告も、必ず実現すると確信したことでしょう。私たちも、主が生きておられるという不思議な事実を体験した時に、主が語られたみことばも真実だと知ることができます。


<22〜23節>

 「神を見たら死ぬ」というのは、旧約時代の人たちが共通に持っていた恐れでした。マノアはそのように恐れましたが、妻は冷静でした。主がマノアたちを殺そうとしておられるなら、

 @ 彼らのささげものを受け取らなかったはず。
 A 彼らの目の前で不思議なしるしを行わなかったはず。
 B イスラエルを救う子どもを与えるとは予告なさらなかったはず。
と夫に告げて、決して今自分たちが死ぬことはないと励ましました。  

 この視点は大切です。私たちが勝手に悲観的な思い込みをする時に、それを自分の罪や弱さと関連付けようとする肉の傾向があります。その時に、主がこれまで自分の上になさったこと、語られたことを思い出しましょう。主が私を呪い滅ぼそうとしておられるなら、主の不思議なみわざは起きなかったし、神のことばが自分に語られることはなかったのです。悪魔はたえず私たちを告発し、私たちの罪を神に訴えますが(ヨハネ黙示録12:10)、キリストが神の前で私たちをいつも弁護していてくださいます(Tヨハネ2:1)。自分勝手な基準で、自分を責めたり神の祝福を否定したりしないように、堅くみことばに立ちましょう。


<24〜25節>

 主の使いが約束した通り、不妊の女で子どもを産むことがなかったマノアの妻が、男の子を産みます。その名をサムソンと名付け、「主は彼を祝福された」のです。そして主の霊が、サムソンを「揺り動かし始め」ました。つまり主の力に満ちていることが、自他ともに認められるようになったのです。                                                 (裏面に続く)  

 神はマノアとその妻に、サムソンをみごもる前からすでに、彼をナジル人としてささげるように 命じました。そしてその通りささげた子を、神は祝福されたのです。しかしサムソンの生涯を 客観的に見ると、「神の祝福って何だろう?」と思えることばかりです。すぐカッとなって切れるし、女ったらしだし、最後は悲惨な死を遂げるし、両親にとっても「どうしてこんな男になってしまったのだろう?」と悩むことがあったかもしれません。でも「主は彼を祝福された」(24)のです。聖書に出てくる信仰者たちも、みな波乱万丈の人生を送っています。「なぜこのような人生を送らなければならなかったのか?」と人から言われ兼ねない歩みでした。そのような悲惨に見えることも含めて、大きな主の祝福の中にあるのです。最後に神はすべての辻褄(つじつま)を合わせてくださり、主のなさる抜かりないご計画の前に、ひれ伏さずにはいられないようにしてくださいます。

 主にささげていく時に、主はささげたものを祝福してくださいます。これは聖書の鉄則です。自分で握りしめている時には、すべてがちぐはぐでおかしくなり、結局握りしめているものによって苦しむことになります。家族も、持ち物も、「主よ、すべてあなたのものです」(T歴代誌29:14)と主にお返しし、ささげていく時に、主は祝福してくださいます(Uコリント9:6〜8)。

 神にささげることは、決して損をすることでも失うことでもなく、祝福を受ける道です。ささげる自分自身も、握りしめていたものから解放され、楽にされていきます。今握りしめている持ち物、人間関係、進路、すべてを一度主におささげし、聖別していただきましょう。主は何倍にもして、主の祝福に変えて返してくださいます。
 ページの先頭に戻る

 4月16日
礼拝メッセージ要約 主題:「私は主にお目にかかりました」

           ヨハネの福音書20:1〜18 三浦真信牧師

 イエスが最初に復活の姿を現したのは、マグダラ(地名)のマリヤでした(1節)。彼女は、イエスに出会う前には7つの霊(非常に悪質な霊)に束縛されてどん底にいました。その中から、イエスによって解放されたのです(マルコ16:9)。何の希望もない人生からイエスと共に歩む喜びの人生へと変えられ、イエスのことが大好きで仕方がなかったのです。ですからイエスが十字架にかけられた時にも、イエスのそばを離れませんでした(ヨハネ福音書19:25)。そのようなマリヤですから、安息日が終わったら一刻も早くイエスのもとに行きたくて、朝早くイエスの遺体が納められている墓に来たのです。  

 しかし墓に来てみると墓石が取りのけられていて、イエスの遺体は見つかりませんでした。マリヤは驚いて、イエスの弟子であるペテロとイエスが愛されたもう一人の弟子(ヨハネ)に報告します。二人が走って墓に来ると、確かにマグダラのマリヤの言った通りでした。  

 マリヤは、イエスの遺体がなくなっていたことを悲しみ、墓の所で泣いていました。そこにイエスが立っておられましたが、マリヤはイエスだと気がつきませんでした。彼女はイエスのことを墓の管理人と思い、「イエスの遺体をどこかに運んだのなら、どこに置いたか教えてほしい」と言いました。その時イエスは「マリヤ」といつもの優しい声で呼びかけます。マリヤもその声にイエスだと気づき、「ラボニ(先生)」と呼び、イエスにすがりつきます(15〜16節)。イエスは父なる神のもとに帰らなければならないので、「わたしにすがりついてはいけない」と言ってマリヤを引き離します。神のみこころに従うイエスを、人間の情で妨げてはいけないのです。  

 マリヤは、弟子たちのもとに行って「私は主にお目にかかりました」と告げます(18節)。イエスは、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と論じ合っていた弟子たち(ルカ22:24)にではなく、イエスだけを愛し求めていたマグダラのマリヤに、まず復活の姿を現してくださったのです。  

 「私は主にお目にかかりました」というマリヤのこの告白は、今も復活のイエスに出会った人々を通して、世界中に広がっています。そしてイエスに出会った人々の証しを通して、罪の滅びから救われる人々が今も起きているのです。  

 イエスに出会う場所は、決して調子の良いところではありません。マグダラのマリヤのように、人生のどん底でもがき苦しんでいた時、また愛する人を失って悲しみの中にいるような時です。  

 何かに抑圧されていたり弱さを抱えている時、何もかもうまくいかず悩み果てている時にこそ、イエスは復活のその姿を現してくださいます。そして悲しむ者と共に寄り添ってくださる主イエスです。ですから安心して、自分がどのような状態であっても、イエスを慕い求めていきましょう。決して良い状態でなくてもよいのです。むしろそのような中で、復活の主イエスを求めていきましょう。主は私たちを決して見放さず、寄り添っていてくださることを体験することができます。
 ページの先頭に戻る

 4月9日
礼拝メッセージ要約 主題:「神のものは神にかえしなさい」

           ルカの福音書20:19〜26  三浦真信牧師

<19>

 律法学者、祭司長たちは、この前イエスが語られたぶどう園のたとえに出てくる「農夫たち」が、自分たちのことを指していることに気づき、怒ってイエスを捕えようとします。本来イエスが語られたみことばは、自分に語られたこととして受けとめたら、「本当にこれが自分の実態だ」と素直に認めて悔い改めていく時に 神様の祝福が注がれます。しかし律法学者たちは、どこまでも自分たちの実態を指摘したイエスを殺していく方向に行きました。決して自分の神の前における真の姿を認めて砕かれていく方向には行きませんでした。  

 この時は、民衆を恐れてイエスを捕えませんでした。イエスは神から遣わされ、神の権威によって語られたので、人を恐れることなく神の言葉を語り続けました。しかしユダヤ人指導者たちは、人の権威によって立っていたので、必死で自分の立場を守らねばならず、民衆をいつも恐れていました。


<20節>

 何とかイエスを捕えようとしていた律法学者、祭司長たちは、イエスの元に「義人を装った間者(かんじゃ)(スパイ)」を送り込みました。「装った」の原語は「偽善」を意味する語源の動詞です。律法学者たちを、イエスは何度も「偽善者」と呼びました。彼らは、神に従っているふりをして(装って)、実は神に従わず、自分では従っていると誇っていたのです。しかし誰もがこの「偽善」の要素をもっているのです。自分の汚く醜い姿は隠して良い者のように見せようとするのが、人間の罪の性質です。神の御前で照らしだされた時に、自分の真の姿を認めていかないと、私たちはすぐに偽善に陥り、偽りの自分を装ってしまうのです。律法学者たちは、「義人を装って」イエスを罠(わな)にはめることを何とも思っていませんでした。すべてをご存知の神を恐れていない証拠です。民衆を恐れて、神を恐れていませんでした。神の権威に立たないから、自分たちの悪知恵で立場を守るしかなかったのです。  

 また並行記事を見ますと、この「義人を装った間者(かんじゃ)」は、「パリサイ人とヘロデ党」の混合メンバーであったことがわかります(マタイ22:16、マルコ12:13)。この二つのグループは、日頃は敵対している関係にありました。パリサイ派は、ローマから独立してユダヤ人国家を目指す反ロ ーマ的立場をとり、ヘロデ党はローマ皇帝からユダヤ地方の責任を任されていたヘロデを支持し、親ローマ派でした。日頃は相容れないこの二つのグループが、イエスを共通の敵として結束したのです。


<21節>

 日頃は仲たがいしているパリサイ人とヘロデ党が、「義人を装って」イエスに近づき、質問をします。イエスのことを持ち上げ、安心させてイエスが本音を話すように仕向けて、罠(わな)に陥れようとしたのです。  

 ここで間者(かんじゃ)たちが言っていること自体は真実です。イエスの教えは正しく、分け隔てせず罪人たちとも交わり、真理に基づいて神の道を教えました。彼らの言うことは真実ですが、彼らはその通りに信じてはいませんでした。イエスを罠(わな)にはめるためには、自分たちが信じていないことも信じているふりをすることができたのです。


<22節>

 彼らの質問は、「ローマ皇帝カイザルに税金を納めることは、律法にかなった良い事か悪い事か」という内容でした。この質問にイエスが、「良いことだ」と答えれば、反ローマの立場をとっているパリサイ人やローマの統治を快く思わない民衆たちの反発を買うことになり、人々の心がイエスから離れていくと考えたのでしょう。また「良くないことだ」と答えれば、親ローマの立場をとるヘロデ党はじめ、親ローマの立場を支持する民衆の反発を買い、彼らが直ちにローマの総督に訴えることになります。どちらをイエスが答えても不利な質問を投げかけ、またあえて反ローマのパリサイ人と親ローマのヘロデ党をスパイとして送り込み、イエスがどちらを答えても反発の声がその場であがるように企んでいたのです。


<23〜26節>

 人の心をもご存知のイエスは、彼らの悪巧みを見抜いて、デナリ銀貨(ローマの貨幣)を見せながら、そこにローマ皇帝カイザルの肖像が刻まれていることを指摘して「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。この答えには、スパイたちも驚嘆して黙ってしまいました。  

 このイエスの言葉は、キリスト者がこの社会でとるべき態度の原則です。税金を納めることなど、地上の義務は果たし、ルールに従いながら生きます。社会的責任はしっかり果たしながら、でも自分という存在は神に「キリストの死」という代価を払って買いとられた者として絶えずお返ししていきます(ローマ13:1〜7)。神に従うことを禁じるルールや、神以外の偶像や人を崇拝するように命じることには従えないので、その時にはその罰を受けるという形で地上のルールに従います。でもそれ以外のことは、神が立てた秩序として、不完全ではあっても地上のルールに従います。  

 決して盲目的に従うのではありません。義務として果たすべきことは果たしながらも、「地上の権威に従うのか、神に従うのか」を問われた時には、「神に従う」ことを選んでいくのです。「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)。これは日常生活でも私たちがたえずしている選択です。人の意見も自分の思いも「右に行く方が良い」であっても、神はみことばと聖霊によって「左に行きなさい」と迫られる時があります。その時には、人の声や自分の願いが右であっても、左にいくことが神の祝福を受ける方向です。なかなかすぐには従えないこともありますが、最終的に神に従っていく時に、必ず「あの時神に従っていて良かった」と感謝できるようにしてくださいます。  

 イエスご自身が、弟子たちの声や自分の思いもうしろにして、十字架の死にまで神に従い通しました。それによって、多くの人たちの救いの道が開かれたのです。そして十字架で死なれたキリストを、神は死からよみがえらせ、地上のすべての名の上に高く置かれたのです(エペソ1:20〜22)。


 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」が、クリスチャンの社会生活における鉄則です。地上の権威、ルールに従うべきところは従いつつ、私という存在はすでに十字架で死んで復活のキリストのいのちで生かされていることを感謝しながら、たえず自分自身を神にお返しし、ささげていきましょう(ローマ6:13)  

 人の言葉、周囲の情報、自分の願いが神の言葉と対立する時には、神の言葉に従っていくことが「いのちと平安の道」です(ローマ8:6)。形だけ神に従ったふりをせず、神様に率直な自分の思いや迷いを心を注ぎ出して祈り、最終的に神のみ心がはっきり示されたら、聖霊に助けていただきながら従ってまいりましょう。
 ページの先頭に戻る

 4月2日
礼拝メッセージ要約 主題:「見捨てられた礎石」

           ルカの福音書20:9〜18  三浦真信牧師
<9〜12節>

 イエスが神殿の庭にいた商売人を追い出したことで、祭司長たちが「何の権威によってこれらのことをするのか?」と質問しました(19:45、20:2)。イエスが神から遣わされ、神の権威によってしていることを伝えるために、パレスチナでは身近なぶどう園のたとえをイエスは語りました。  

 ぶどう園の主人は、長旅に出るために、農夫たちにぶどう園を貸します。農夫たちは、最初は仕事が与えられて、主人にも感謝をしていたことでしょう。しかし時間が経つにつれて、あたかもそのぶどう園が自分たちの所有であるかのように思い違いし始めます。主人は農夫たちにぶどう園を貸しているので、収穫の分け前を賃貸料として受けるのは当然のことでした。そのために主人はぶどう園にしもべを遣わします。しかし農夫たちはそのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り返しました。その後も主人はしもべを遣わしますが、農夫たちは同じようにしもべたちをはずかしめ、傷を負わせて空手で送り返します。  

 ぶどう園は、神が特別な民として選ばれたイスラエルです。そしてぶどう園の主人は神様です。農夫たちはイスラエルを治める王たち、またイエスの時代には祭司長、律法学者、長老たちです(彼らはユダヤ最高議会サンヘドリンを構成する議員でもありました)。そして主人が遣わしたしもべたちは預言者たちです(イザヤ、エレミヤなどの預言者だけでなくモーセ、サムエル、エリヤ、エリシャなども)。


<13節>

 ぶどう園の主人は、遣わしたしもべが次々ひどい扱いを受けて送り返されてきたため、ついに自分の「愛する息子」を送ります。「彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう」と考えたのです。  

 普通でしたら、この状況で自分の息子を遣わそうとは到底考えられません。最初のしもべが送り返された時に、農夫たちは追い出されても当然です。また主人にはそうする権威も力もありました。しかし主人は農夫たちを信頼し、忍耐し、ついに息子を派遣します。これが神様の寛容であり、愛なのです。神の側で忍耐して、悔い改めて立ち返る時を待ち続けてくださっているのです(Uペテロ3:9)。


<14〜15節>

 お人よしと思われてもおかしくないほどにぶどう園の主人は寛容で、自分の息子になら農夫たちも手荒なことはしないだろうと信頼し、ついに息子を遣わします。しかし農夫たちは、しもべたちよりひどい扱いをして主人の息子を殺してしまいます。


<16節>

 さすがに寛容な主人も、ぶどう園に戻ってきて農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園を他の人たちに与えてしまいます。この譬え話しを聞いていた人たちは、「そんなことがあってはなりません」と言って、自分たちの身にそのようなことが起きてはほしくないと願いました。   

 主人が最後に遣わした息子は、神が遣わされたイエス・キリストのことです。それまで神は、預言者たちを遣わして神のみ心を伝えてこられました。しかしイスラエルの民たちは、預言者を通して語られる神のことばに耳を傾けず、神を侮り続けたのです。そしてついに神の独り子イエス・キリストが遣わされますが、人々はイエスを受け入れるどころか十字架にかけて殺してしまいます。そこから神の祝福は異邦人に広がっていくことになります。そしてイエスが殺されて約40年後、エルサレムの町はローマ軍により徹底的に破壊されてしまいます。


<17〜18節>

 詩篇112:22の引用です。「このような石はいらない、家を建てるのに邪魔だ」と言って捨てられた石が実は、この家にとってなくてはならない礎(いしずえ)の石(家の土台となる大切な石)だったのです。正にイエス・キリストこそ、神が遣わした信仰の土台です。祭司長たちが見捨てて殺したキリストこそ、大切な礎石(そせき)だったのです。  

 この石(キリスト)につまずく者は石の上に倒れ、粉みじんに砕かれます。エルサレムが紀元70年に跡形もないほどに壊滅しましたが、キリスト再臨の時にこの救いの石なるキリストを無視してきた者たちは、永遠の滅びという結果を受け取ることになるのです。  

 自分たちの正しさを主張し続けた者たちは、神が遣わしたキリストにつまずきました。そしてキリストを見捨てました。でも自分の罪を認めて、キリストに信頼した者は失望させられることがありません(ローマ9:31〜33)。むしろ神との平和な関係を回復することができます。  

 キリストは、人に見捨てられ、十字架にかけられました。すべての人の罪を身代わりに負ってキリストが死なれたからこそ、この見捨てられた礎石(そせき)であるキリストを通して、罪の赦しと救いを受けることができます。この方に信頼するなら、失望させられることがありません。神が信仰の土台の石として、キリストを遣わしてくださいました。キリストを通して、私たちは罪汚れをきよめられ、神に近づくことができます。(エペソ2:17〜20)。この方を通して、全く違う者たちも一つとされ、神の家族とされます。キリストは人には見捨てられましたが、この方を信じる者にとってはなくてはならない信仰の土台です。  

 いよいよキリストに信頼してまいりましょう。
 ページの先頭に戻る