(2017年3月)

 ・ 3月26日
 ・ 3月19日
 ・ 3月12日
 ・ 3月 5日
 




 3月26日
礼拝メッセージ要約 主題:「真の協力者よ!命の書に名の記されている者よ!」

           ピリピ人への手紙4:2〜3  野田勝利師(ひばりが丘バイブルチャーチ)

 ここで言われている「真の協力者」とは、無名ではあるがパウロが心から信頼し、ともに教会を建て上げた人たちを指しています。ピリピ人への手紙は、パウロがローマで捕えられていた時に最後のメッセージとして書かれました。この手紙は書き進められていくにつれて、パウロの遺言のような意味合いを帯びていきました。最後に是非とも伝えたいという思いの中で浮かんだのは、「真の協力者」「命の書に名を記されている者」と呼ばれる友人たちだったのです。クリスチャンとしてこの世で生き、やがて天に帰って行く時に、残された人たちが自分のことをどんなふうに呼んでくれるか、あるいは生きながらにあの人はすばらしいねと言ってもらえるような者になれるだろうかと考えると、「真の協力者」「命の書に名を記されている者」とタイトルが付けられたならどんなに幸いなことでしょう。  


<2節>

 「ユウオデヤ」と「スントケ」とはともに女性のリーダーでありました。ところがこの二人は仲互いし、対立していたのです。私はユウオデヤに付く、私はスントケに付くと教会が分裂する危機にあるということがパウロの耳に入りました。具体的に何があったかは書かれていませんが、教会全体に悪い影響を与えていたことに、パウロは心痛め、この手紙を読むであろう二人に宛てて「一致してください。」とメッセージを送りました。


<3節>

 ここに出てくる「真の協力者」とは誰のことかわかりません。本来固有名詞であったのに、ギリシャ語を読み間違えて「真の協力者」と訳してしまったのだと解釈する説もあれば、「協力者の皆さん」と全体に呼びかけているのだと解釈する説もあります。私は、名前は明かさないがパウロが信頼している一人のリーダーのことを指していると考えます。ほんとうの真の協力者であるあなたが、ユウオデヤとスントケの間に入って和解するよう、一致するよう助けてほしいと懇願しているのです。名前が明かされていないだけに、この手紙を読んだ人は自分に語られているように受け取り、パウロの願いに沿うようにしなければと思ったことでしょう。  

 「命の書」という表現は聖書には何度か出てきます。イエス・キリストを信じる信仰を守り通した 人は皆、天の書にその名が記されているのです。特に忠実で熱心なクリスチャンに向けて、天の書に名が記されているほんもののクリスチャンだと褒め言葉を送っています。


 最後に、私たちがクリスチャンとして目指していく生き方をまとめましょう。

 @ 一致を守る「真の協力者」になりましょう。(エペソ4:3) 教会、家庭、職場の中で一致が失われ、争いが起きる時がありますが、私たちは一致を生み出し、愛と赦しを生み出し、神さまから真の協力者と呼ばれる生き方を目指しましょう。また、お互いにそう呼び合える兄弟姉妹になっていきましょう。さらに教会が神さまの祝福で満ち溢れていくことでしょう。

 A 「命の書に名を記されている者」と呼ばれる者になりましょう。 試練や不安を抱えていたとしても安心していきましょう。私たちの人生で最大の問題である罪の問題はもう解決しているのです。最大の敵である死の問題は、もはや私たちにとって悩みではないのです。死の向こうに永遠の命の世界が待っているのです。私たちの名は命の書にしっかりと記されていることを覚えましょう。そして、それにふさわしい生き方、すなわち神を愛し忠実に歩み、他の人たちにもこの喜びを伝えていく生き方を目指しましょう。
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 3月19日
礼拝メッセージ要約 主題:「神の権威と人の権威」

           ルカの福音書20:1〜8  三浦真信牧師

<1〜2節>

 イエスが神殿の庭で商売をしている人たちを追い出したことに対して、祭司長らユダヤ教指導者たちが、イエスに「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか」と言ってきました。両替人や動物のささげ物を売る人たちが神殿の庭で商売をすることは、自分たちが許可していることなのに、その立場にないイエスが勝手に追い出したことに彼らは腹を立てたのです。イエスは、純粋に「自分はわからないから教えてほしい」と質問してくる人には、答えてくださる方です(すぐにではないこともあります)。しかし祭司長たちの質問が、明らかにイエスを貶(おとし)めるためでしたので、ストレートには答えずに、むしろイエスも質問で返しました。それでもイエスの質問に真っ向から向き合えば、自(おの)ずと彼らの質問への答えとなる内容でした。


<3〜4節>

 イエスの質問は、「ヨハネは天から来たのか、人から出たのか」というものでした。つまり、「バプテスマのヨハネが神から遣わされたのか、そうでないのか」という質問です。バプテスマのヨハネは、イエスが宣教を始める前に、人々に罪の悔い改めを迫りました。罪から救うイエス・キリストを受け入れるには、まず自分が神から外れた罪人であることを認める必要があります。いかに神との間に大きな壁があるか、きよい神に近づきえない存在であるかを認めて、悔い改めて(向きを変えて)神に立ち返るようにヨハネは人々に叫びました。またそのために、神がヨハネを遣わしたのです。ですから、イエスの質問にストレートに答えるなら、「ヨハネは天から来た」となります。そして、その罪から人々を救うために来られたイエスも、神から遣わされた方なのです。


<5〜6節>

 祭司長、律法学者、長老たちは、イエスの質問を受けて互いに論じ合います。彼らは、バプテスマのヨハネのことを悪霊呼ばわりしていました(マタイ11:18〜19)。ですから、もし「ヨハネは天から来た」と答えたら、「ではどうして、神の教えを説くあなたがたが、神が遣わされたヨハネの言うことに耳を傾け信じなかったのか」と言われてしまいます。しかし「人から」と答えれば、民衆がヨハネを預言者と信じていましたから、暴動を起こして自分たちに危害を加えるかもしれないと考えたのです。


<7〜8節>

 祭司長たちは、「何が真理か(何が神のみこころか)」ではなく、「どう答えたら自分たちに有利であるか」を基準にしていましたから、「どこからか知りません」と言うしかありませんでした。結局自分たちの利得しか考えていなかったのです。「これが真理だ」とわかったら、人からどう思われようがそれを信じ従っていこうというのではなく、「どうしたら自分たちにとって益となるか」しか考えていなかったので、答えられなかったのです。

 彼らが自分たちの立場を守ることにしか関心がないことを見て、イエスも「何の権威によってこれらのことをするのか」という彼らの質問には答えませんでした。


 人が立てた権威は、人が必死で守っていくしかありません。そうすると、この時の祭司長、律法学者たちのように、自分の立場を守るためにそれを脅かす人を攻撃し続けることになってしまいます。一方バプテスマのヨハネも、イエスも、神の権威によって遣わされましたから、自分で自分の立場を守る必要がありませんでした。律法学者パリサイ人たちが難癖をつけてきても、それに対抗することなく淡々と自分に与えられた使命を果たしていきました。

 イエスは、神が遣わし、神が権威を与えて、すべての名の上に高く置かれた方です(エペソ1:21〜23)。教会は、その権威を与えられたイエス・キリストがかしらであり、その方が満ち満ちておられるところなのです。このキリストの権威を侮(あなど)ることは恐ろしいことです。

 具体的に、神がキリストにいっさいの権威を与えられた理由が、マタイ28:18〜20に記されています。それはいっさいの権威を与えられたキリストが弟子たちを遣わして、「あらゆる国の人々をキリストの弟子とするため、そしてキリストのことば(みことば)を守るように教えるため」なのです。キリストの弟子たちと共に、神からいっさいの権威を与えられたキリストが、世の終わりまでいつも共にいてくださるので安心です。自分自身しか信じられなかったら、自分が弱くなった時にはどうすることもできません。しかしすべての名に勝る権威をもつキリストは、私たちの状態によって変動する方ではありません(へブル13:8)。その方が、いつも世の終わりまで、キリストの弟子となった者たちと共にいてくださるのです。そのキリストの権威を信じ、また遣わされていきましょう。
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 3月12日
礼拝メッセージ要約 主題:「祈りの家」

           ルカの福音書19:45〜48  三浦真信牧師

<45節>

 イエスは、公に宣教する最初と最後に、宮清めをなさいました(ヨハネ2:13〜22が最初)。それだけ重要な意味を持ちます。

 神殿は神を礼拝するところです。神礼拝そのものが崩れていくと、神を畏(おそ)れ敬う心も薄れていき、信仰生活も曖昧になっていきます。旧約の預言者たちも、形式的礼拝で満足している民たちに繰り返し警告を与えてきました。

 霊とまことをもって神を礼拝しているでしょうか?(ヨハネ4:24)。「神は霊です」とあるように、神は人格を持っておられます。私たちも内におられる御霊によって、人格を持っておられる父なる神を礼拝しましょう。

 また私の「からだ」を生きた供物としてささげましょう(ローマ12:1)。礼拝とはそのような積極的行為です。

 マルコ11:15〜16を読むと、どのような商売人がいるかがわかります。

@ 両替人

 神殿に収めるお金は、ユダヤの貨幣(半シェケル)と決まっていました。でも当時はローマ帝国が統治していて、ローマやギリシャのお金が使われていました。シェケルに替えるために、両替人が神殿の庭にいたのです。

A 鳩を売る者たち

 当時の礼拝は、犠牲の動物をささげることでした。そのささげものは、牛、羊、やぎ、鳩(高価な順)と決められていました(レビ記1章)。そしてささげる動物は、傷のないものと決まっていました。動物を家から引っ張って来ると、途中でけがをしたり傷がついたりしてささげられなくなります。そこで、神殿では傷がない検査済みの動物を売っていました。

 いっけん礼拝のための便宜を図っているように見えますが、両替人はかなりの手数料を取り、ささげ物の動物も普通の何倍もの値段で売られていました。しかもそこは異邦人の庭とよばれ、異邦人が礼拝する場所でした。動物の鳴き声や商売人の声で、落ち着いて礼拝することができません。そして商売人は、大祭司の配下にありました。大祭司も場所代などをとって私腹を肥 やしていたのです。堕落したエルサレムの神殿礼拝の様子をご覧になり、イエスは台や腰掛を倒されたのです(マルコ11:15)


<46節>

 イザヤ56:7、エレミヤ7:9〜11からの引用です。神殿はお金儲けをする所ではありません。利益を取るべきではない所で利益をとるということは、不当な利益をとることです。神の目からご覧になれば、祈りの家であるはずの神殿が、強盗の巣になっているも同然でした。本来祈りの家であるはずの神殿が、人間の欲望を満たす場になってしまっている…ここにイエスの悲しみがありました(41節)。

 建物のことだけではありません。キリストを信じ御霊を宿すものは、神の神殿です(Tコリント3:16〜17)。ですから、自分自身をも「神の神殿」として大切にしましょう。また御霊を宿す者としてたえず罪を悔い改め、イエスの十字架の血潮できよめられていきましょう。私という神殿が、強盗の巣になっていないでしょうか?サタンにいいように利用されていないでしょうか?御霊が支配してくださるように、たえず明け渡していきましょう。


<47〜48節>

 自分の利益を守ろうとした人たちが、イエスを殺そうとしました。人は自分の利益や立場、名声、色々なものを守ろうとして、それを脅かすものを殺していく(マタイ5:21〜25)ものです。だからたえず神の前に砕かれていくことが大事です。内側が強盗の巣となっていないか、たえず御霊に点検していただきましょう。御霊が自分の内側の姿にも気づかせてくださいます。そのためにも祈りの家が必要です。主の臨在が満ちる場で、御霊が触れてくださり、自分の真の姿に気づかせてくださいます。心のうちに巣食う罪を露にしてくださいます。そこでこそ、イエスの十字架により罪赦される恵みを体験することができるのです。

 イエスが大泣きされたのは、エルサレムのためだけではありません。今も利得と欲を生かして人を殺していく人間の様をご覧になって、主は悲しんでおられるのです。生ける神の神殿として、日々主イエスに罪をきよめていただきましょう。ありのままの自分を注ぎ出して祈っていく時に、主は私たちの宮きよめをしてくださいます。
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 3月5日
礼拝メッセージ要約 主題:「平和のことを知っていたのなら」

           ルカの福音書19:41〜44  三浦真信牧師

<41節>

 エルサレムの町が一望できるオリーブ山を下り、エルサレムの町がさらに近くなったころ、イエスは都エルサレムを見て泣きました。ここの「泣く」という原語は、「大声を上げて泣き叫ぶ(エクラウセン)」という意味の言葉です。


<42〜44節>

 イエスがそのように号泣した理由が、ここに記されています。「おまえ」という言葉が、ギリシャ語原語では12回ここで使われています。エルサレムを慈しみ、擬人化して呼びかけておられます。

 「おまえももしこの日のうちに、平和のことを知っていたのなら」と、イエスは泣き叫びます。「エルサレム」という名前には、「サレム(平和)」の意味が入っています(へブル7:2)。そのエルサレムが本当の平和の道を知らないことを、イエスは悲しみました。

 ここの「平和」は、「平和に関わる事がら」が直訳です。これは、「14章32節の」「講和(敵と和解する)」と全く同じ言葉です。「平和に関わる事がら」とは、「真に和解すべき方と和解すること」なのです。

 人は平和を求めますが、いつの時代も戦争があり、身近なところでも争い・不和があります。イエスが言われる「平和に関わる事がら」の根本は、すべてのものを造られた神と和解することにあります。神との和解を与えるために、神は独り子イエスを世に送られました。しかしユダヤ教指導者を中心にエルサレムの人々は、そのイエスを十字架につけて殺してしまうのです。正に平和に関わる事がらを知らないのです。イエスこそ、ご自分の死によって、神との和解を与え、真の平和を回復してくださる方です(コロサイ1:20)。

 神が遣わしたキリストを拒否して、心の伴わない形だけの礼拝がエルサレムで続けられていきます。それでいて、人々は「我々は神の民だ」と言って自己満足していました。

 やがて、エルサレムがさばかれる時がきます。「神の訪れの時」(44節)は、原文では「おまえの訪れの時」となっています。つまり「おまえがさばかれる時」の意味です。事実この40年後に、イエスが言われた通りのことがエルサレムに起きます。そのことが、1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフォスの「ユダヤ戦記」に詳しく記録されています。ローマ帝国へのユダヤ人反乱をきっか けに、ローマ大軍がエルサレムを包囲し、外からの食料補給を一切絶って城壁内を飢饉に追い込みます。エルサレムにいたクリスチャンは、イエスの言葉「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」を信じて移住しました(マタイ24:16)。そのため助かります。イエスの言葉を信じずエルサレムに留まった人たちは、飢えの中で苦しみ、また残虐行為が繰り返され、紀元70年にエルサレムは陥落します。「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない」(44節)ほどに破壊され、かつてここに人が住んでいたのかと言われるほどに、エルサレムは廃墟と化します。


 神が遣わされたイエスを受け入れないということは、神に従わないことです。エルサレムの多くの人々は、神が遣わしたイエスを拒否し、自分たちの欲望を成し遂げるための形式的礼拝を繰り返して満足していました。神との平和な関係をもたないまま、人々が「これで大丈夫。平安平安!」と言っている先に待っているさばきを思い、イエスは大声で泣き叫びました。神との和解を与えるためにこそ、イエスは十字架ですべての人の罪を負って死なれるのです。

 エルサレムの住人でも、イエスの言葉を信じて従った人たちは、ローマ軍侵攻の時にも山へ逃げて助かりました。ただ今もイエスの言葉を信じ、イエスを受け入れ、神と和解をするならば、滅びることなく永遠の神の国に入れるのです。

 「今は恵みの時、今は救いの日です」(Uコリント6:2)。今イエスを信じるなら、救われます。神と和解することにこそ真の平和があると知ったなら、また人々に真の平和の道(神と和解すること)を伝えましょう(Uコリント5:20〜21)。
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