(2017年2月)

 ・ 2月26日
 ・ 2月19日
 ・ 2月12日
 ・ 2月 5日
 




 2月26日
礼拝メッセージ要約 主題:「自己中心や虚栄からの解放」

           士師記12:1〜15   三浦真信牧師

<1〜7節>

 士師エフタは、アモン人との戦いで、主の力により勝利を収めました。その後エフライム人がアモン人との戦いで、自分たちに呼びかけなかったと非難し攻撃してきました。エフライム人の中には、勝利を収めたエフタたちギルアデ人への妬(ねた)みと、戦利品の分け前に与(あずか)れなかったことへの不満がありました。

 エフライム人は、士師ギデオンがミデヤン人に勝利した直後にも、難癖をつけてきました(8:1〜3)。その時は、エフライム人が最後に参戦してミデヤン人の首長を捕えた功績をギデオンがたたえて丸く収まりました。しかし今回は、「ギルアデ人はエフライムに身を寄せていた逃亡者、臆病者だ」という意味の暴言を吐いて攻撃をしかけてきたので、ギルアデ人も戦わざるをえませんでした。

 ギルアデ人は、エフライムに面する要所ヨルダン川の渡し場(3:28)を攻めとります。エフライムのギルアデ人に対する暴言とは反対に、エフライムの逃亡者たちがギルアデ人の元に来ますが、ギルアデ人は訛(なま)りによってエフライム人を見分けて倒しました(「シボレテ(川の流れ)」をエフライム人は正しく発音できませんでした)。  

 波乱に富んだ士師エフタ(12士師の8番目)でしたが、イスラエルを治めた期間は6年間でした。


<8〜15節>

 その後イブツァン、エロン、アブドンが士師となります。彼らの時代は、外敵と戦った記録はありません。主として国内の訴訟問題に当たったようです。そして、この後最後の士師であるサムソンが登場します。

 イスラエルは部族が12に分かれ、日頃は部族ごとに生活していました。しかし国全体が危機にある時には、一致団結して協力していくのは当然です。ですから、国全体が他の国から攻撃されれば、すべての部族に呼びかけるのが筋でした。

 エフライム族(人)の場合も、もしギルアデ人がアモン人との戦いの時に呼びかけていなければ、苦情を言われても仕方がありません。しかし実際にはギルアデ人はエフライム人にも声をかけ助けを求めていました(2節)。それなのに、ギルアデ人の求めを軽んじ無視したエフライム側に問題がありました。戦いが勝利に終わると、参戦していれば勝利の恩恵に与れたと後悔し、エフタたちギルアデ人に難癖をつけ攻撃してきたのです。

 教会も、日頃は各グループチームで交わり活動していても、一つからだとして、教会全体に関わる出来事があれば、一致団結して事に当たっていきます。また教会全体に関わる大切なことは、今は月報・週報に掲載されています。また礼拝で毎週報告されています。特に礼拝の報告は、単なる事務連絡ではなく、キリストのからだである教会を皆で覚えて祈り続けていくための礼拝の一部です。そのことを心に留めて、3月から今年のテーマ「キリストのからだ」という時間を、礼拝の最初に持ち、皆でからだのことを覚えたいと思います。 私たちの心は、放っておくと自己中心になりがちです。自分のことばかりに心が向いてしまいやすいのです。ですから礼拝の中で、からだ全体のことや他の器官のことを意識して心に留めていく必要があります。

 たえずエフライム人のように自己中心と虚栄が古い肉の性質として出てきます(ピリピ2:3〜4)。それに支配されないようにしましょう。とらわれている自分から目を離して、他の人のことも顧みましょう。また教会のためにも、心を合わせて祈りましょう(ピリピ2:2)。エフライム人のように、他の器官が用いられ成功した時に、それを妬んだりおとしめていく方向ではなく、自分のからだの出来事として喜べるように、御霊の助けを求めましょう。
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 2月19日
礼拝メッセージ要約 主題:「石が叫びます」

           ルカの福音書19:36〜40 三浦真信牧師

<36節>

 イエスは、二人の弟子たちが連れてきた、まだだれも乗ったことのないろばの子に乗ってエルサレムに向かって進んで行きます。  

 人々がした「道に自分たちの上着を敷いた」というのは、戦いで勝利を収めた将軍が帰って来て入城していく際に、群衆がよくする行為です。枝を道に敷く人もいました(マルコ11:8)。普通将軍は軍馬に乗って凱旋(がいせん)します。しかしイエスは、柔和なろばの子に乗りました。「主がお入用なのです」と言われて連れて来られた(33)未経験のろばの子を、イエスは十字架が待つエルサレム入城という大切な時に用いられたのです。


<37節>

 イエスの一行は、オリーブ山を登り、そして下り、目前に広がるエルサレムの町を見ながら、ふもとに近づきました。そのとき「弟子たちの群れはみな」神を賛美し始めました。10章でも(1節)、12弟子とは別に70人を定めたとありますので、80人以上の弟子たちがその頃にはいました。並行記事では、他の群衆もいたことがわかります(マタイ21章、マルコ11章)。  

 彼らは、「自分たちの見たすべての力あるわざのことで」喜んで神を賛美しました。目的のエルサレムを目の前にして、イエスがこれまでなさった数々の力あるわざを思い起こして、賛美が湧き上がったのです。神を賛美する時には、このように神のみわざを思い起こしましょう。ろばの子に乗ったイエスのあとを、弟子たちは神を賛美しながら進んで行きました。


<38節>

 この賛美は、おそらく当時よく歌われていた讃美歌の一つでしょう。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に」という歌詞の通り、イエスはすべての上に立つ権威を神から与えられた王なる方です。しかしこの時の弟子たちが思い描いていた、エルサレムに独立国を建てる王ではありません。歌詞自体は間違っていませんが、弟子たちの「王」という理解が違っていました。ですから、イエスがこのあと捕らえられて十字架にかけられると、イエスに対して一度はみな幻滅します。自分たちの勝手なイエスに対するイメージが、粉々に砕かれるのです。

 イエスは、ご自分を捨てて、真のいのちを人々に与える王となります。一時的な平和ではなく、永遠に続く天の平和をもたらすために、ご自身は十字架の死の道を歩まれたのです。地上はたえず争いがあり、平和であった時代はありません。神が真の平和を完成してくださるのは、キリストが再び来られる時です。今もすでに、キリストを信じて神と平和な関係を回復した者たちを通して、天の平和がじわじわと世界に広がっています。神と和解した者たちを通して、神の国は今も広がり続けているのです。でもその完成はキリスト再臨の日です。決してその日まで、完全な平和を地上で見ることはできないのです。「なぜこのようなことが起きるのか?」と、納得できないこと、受け取り難いことが、人生にはしばしば起きます。理解できないまま悶々(もんもん)とすることが多々あります。でもそのすべての答えを持っておられる方がいてくださいます。そして、すべての答えがわかる日が来ます。その時には、答えを見つけられなかった問いさえもどうでもよいほどに、キリストのすばらしさに圧倒されることでしょう。


<39節>

 イエスの弟子たちが大声で賛美する様子を見て、パリサイ人たちが「お弟子たちを叱ってください、黙らせてください」と苦情を言います。喜んでいる人たちを批判するのは、いつも律法学者たちです。弟子たちが賛美する声を聞いて、「うるさい!」と彼らは耳を塞ぎました。パリサイ人たちは、イエスの元に人々が大勢集まることを妬み、またイエスに敵対していました。ですから、イエスをたたえる歌を聞くことは不愉快でした。

 パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)と言っています。泣く者と泣く以上に、喜ぶ者といっしょに喜ぶことは、肉の人間には難しいことです。特に自分が苦しんでいる時には、なおさら喜べないものです。ですから御霊の助けが必要です。自分たちの力、自分たちの行いで神に認められようとしていたパリサイ人律法学者たちは、神の助けやあわれみを求めずに、どこまでも自力ですべてしようとしたので、逆にみことばを実行 することができないのです。


<40節>

 パリサイ人の苦情に対して、イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」と答えます。 神をたたえる賛美を奪い去ることはできません。黙らせても、また他の人が神をたたえます。人を抹殺しても、また別の人が神を賛美します。神を証しする者たちの声も、消し去ることは できません。迫害の中で、さらにキリストを信じる者たちは増えていきました。「神は石ころからでもアブラハムの子孫(神を信じる者)を起こすことがおできになる」(ルカ3:8)のです。

 この時の弟子たちのように、キリストに対する理解が不十分でも、神はその賛美を受け入れてくださいます。小さく蹴飛ばされてしまうような者の讃美を、また証しをも、主は用いてくださいます。誰かが黙らせようとしても、また他の者たちが神を賛美し、伝えていきます。  

 サタン(悪魔)は、私たちが神を賛美しないように、また神のみわざを証ししないように、黙るように攻撃してきます。サタンの野望は、すでにキリストの十字架によって打ち砕かれています。イエスは十字架の死と復活により、悪魔に勝利しました。それでも悪魔はなお悪あがきをして、神への賛美とキリストの証しを信じる者たちから奪い去ろうと躍起になっています。神を賛美しないように、キリストの素晴らしさを語らないように、黙らせようという誘惑をしかけてきます。心の中に恐れや不安を投げかけ、思い煩いで気が滅入るようにと、心に火矢(エペソ6:16)をたえず投げてきます。でも私たちはそこでこそ、神から与えられた「意志」を用いて、主を見上げて賛美しましょう。悪魔が投げてくる火矢に支配されないように、祈りと賛美により、たえず主に向きを変えましょう。「神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)。悪魔の声に従ってはいけません。神に従いましょう。様々な理不尽に思えることを通して、悪魔は私たちの口から神への賛美を奪おうとしています。神から与えられた意志を用いて、神を賛美しましょう。キリストを証しし続けましょう。石ころのような者をも、神はご自身の民としてくださいます。石のように小さな者、固い心をも砕いて、キリストを賛美し、キリストのすばらしさを証しする者としてくださいます。石のような小さな者の讃美をも、主は喜んでくださいます。小さな者たちの証しを主は用いてくださいます。黙らずに叫び続けましょう。                            
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 2月12日
礼拝メッセージ要約 主題:「主がお入り用なのです」

           ルカの福音書19:28〜35 三浦真信牧師

<28〜31節>

 イエスは、エルサレムまで3キロあるベタニヤ付近まで来られました。そこで向こうの村に二人の弟子を遣わします。そこに、まだ誰も乗せたことのないろばの子がつないであるので、それをほどいて連れてくるように二人の弟子に命じました。イエスは、私たちと同じ肉体で地上を歩まれました。神の子ですが、ご自身を助けるためには神の子としての力をお用いにはなりませんでした。でもこれから十字架が待つエルサレムに入城する大切な時に、旧約の預言が成就するためには(ゼカリヤ9:9〜10)、神の子としての力をお用いになったのです。イエスが、戦いのための軍馬ではなく、柔和なろばの子に乗ってエルサレムに入城することは、平和をもたらす方にふさわしいことでした。イエスは、ゼカリヤを通して神が語られたことが実現するために、未経験のろばの子がつながれていて、そのろばを二人の弟子たちが連れて来られるようにすでに整えてくださっていたのです。  

 まだだれも乗ったことのないろばの子が、イエスのエルサレム入城の時に用いられたことには、二つの意味があります。

@ イエスは未経験で知識がない者をもお用いになることができます。

 「主がお入用なのです」と言われる時には、未経験のことでも知識がなくても大丈夫です。主が遣わしてくださるのですから、主が責任をもって助けてくださいます。自分の足りなさを見て尻込みするのではなく、遣わす主を信じて応答して従いましょう。人から頼まれたからと言って、それがすべて「主がお入用なのです」と言われているとは限りません。十分祈り吟味して、主がそう言われているとわかったなら、主を信じて従いましょう。主からの迫りがないなら、むしろ本当に主がしなさいと言われていることに集中するために、断ることも必要です。「主がお入用なのです」とはっきり言われているのに、「自分はまだ未熟ですから…他の人の方が上手にできるから…」と言うのは、謙遜ではなく不信仰になってしまいます。主がお入用でしたら、全く経験のないろばの子さえもお用いになります。子どもをも主はお用いになるのです。  

 「キリストのからだ」なる教会において、また世界中にある公同の教会において、自分たちに与えられている器官としての役割を受け取った時には、自分や人、状況を見ずに、主を信じて与えられたことを果たしましょう。

A 最高(新しく傷のない)のものを神にささげましょう。

 イエスが十字架に向かって進むために、まだ人を乗せたことのない新しいろばの子がささげられました。旧約でも、神にささげるいけにえは傷のない動物でした。神には、余り物ではなく最高のものをささげましょう。礼拝は、自分自身のからだを生きた供え物としてささげるものです(ローマ12:1)。そして王の王なる偉大な方を拝するのです。そのためには、前日から体調を整え、また礼拝のために祈り備え、極力肉体的にも霊的にも最善の状態でささげられるようにしましょう(最高の状態でない時でもそのままの自分をささげましょう)。献金も、残ったものをささげるのではなく、まず与えられたものから最初に主にささげるものを取り分け、感謝と献身の思いでささげましょう。  

 イエスのためにささげられたろばの子は、「すぐにまたここに送り返されます」と言われています(マルコ11:3)。神様に最高のものをささげる時に、その時は痛みを伴いますが、主は何倍にも祝福して返してくださいます。このろばの子は、ただの未経験なろばの子でしたが、エルサレム入城でイエスをお乗せした後は、人類の罪のためにささげられた神の小羊イエスを乗せた祝福されたろばの子として返されたのです。主のためにささげることは、決して損をすることではありません。信仰をもってささげるなら、むしろ祝福を受ける出来事です。ある期間はあたかも損をしたかのように思えても、長い年月を通して、決して損ではなかったと主はわからせてくださいます。一人の少年が持っていた5つのパンと二匹の魚を、全部イエスに差し出したら、5000人以上の人がそれだけで満腹になり、しかもパンの残りを集めたら12 かごになりました(ヨハネ福音書6:9〜13)。イエスにささげたものは、多くの人々を満たした上に、差し出した以上になって戻ってきたのです。


<32節>

 向こうの村に二人の弟子が行ってみると、イエスが言われた通りのことを目の当たりにします。イエスが言われたことは、必ずその通りになるのです。聖書を通して主イエスが言われたことは、必ず実現します。それは、みことばを実行した時にわかるのです。聖書をいくら眺めていても、勉強しても、議論しても、みことばの真理はわかりません。わからないままでも、従って実行してみる時に、「ああ本当に主イエスが言われた通りだった」とわかるのです。実行した時に、そのすばらしさがわかるのです。


<33〜35節>

 弟子たちとしては、ろばの子を勝手にほどいたら、主人に咎(とが)められるかもしれないという不安もあったでしょう。確かにイエスの噂(うわさ)はこの一帯にも広がっていましたから、イエスに貸すなら構わないと持ち主も思ったかもしれません。それでも将来の仕事で使う大切なろばの子を、本当にイエスの弟子かもわからない二人の男に、普通は簡単には貸さないでしょう。イエスの方で、持ち主の心がろばの子を差し出しても良いと思えるように整えてくださったのです。  

 二人の弟子は、イエスの言われた通りの事実を体験し、ろばの子を無事イエスのもとに連れてくることができました。  「主がお入用なのです」と言われる時には、未経験のろばの子でも用いてくださる主です。ろばの子は、なされるがままに連れて来られましたが、人間はどうしても自分の経験とか知識の足りなさで判断して、主の言葉に抵抗しがちです。


 「主がお入用なのです」とはっきり言われた時には、自分の弱さや足りなさ、難しく見える状況に関係なく、主を信じて自分自身をささげましょう。足りないことを知っている方が、そこに主が働いてくださることを体験できるので、恵み倍増です。  

 一人ひとりに、「主があなたをお入用なのです」と言われていることがあるはずです。主からそのように迫られた時には、自分や人を見ないで、主を信じて「主よ、あなたのおことば通りに私をお用い下さい!」と、自分をささげましょう。不安や疑いがあっても、主に従ってついて行く時に、主の言葉の真実を見ることができます。主の栄光をほめたたえることになります。主のことばに応答しましょう。
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 2月5日
礼拝メッセージ要約 主題:「信仰を活かす」

           ルカの福音書19:11〜27 三浦真信牧師

<11節>

 イエスは取税人ザアカイの家(9〜10節)で、続けて一つのたとえを話されます。その理由は、イエスが向かっているエルサレムで神の国が現れると人々が思っていたからです。人々が思っていた神の国の完成は、イエスの再臨の時に現れます(今イエスがエルサレムに向かっておられるのは、すべての人の罪の代わりに十字架で死ぬためでした)。その時まで、神の民たちにはまだすべきことがあります。またその時に備える生き方があるのです。そのことを、次のたとえ話を通して伝えておられるのです。


<12〜14節>

 イエスが生まれた頃に、パレスチナ地方を治めていたヘロデ大王が死に、息子のアケラオがユダヤ地方を治めることになります。アケラオが、ユダヤ一帯の支配権をローマ皇帝カイザルから受けるために、「遠い国」(ローマ)に旅だちます。一方ユダヤ地方の民たちはアケラオの統治を好まず、後から遣いをローマに向けて送り、皇帝に「アケラオに私たちの王にはなってもらいたくありません、ローマの直轄地にしてください」と願い出ます。しかし結果的にはアケラオが王位を受けてユダヤに帰り、紀元6年までユダヤ地方を治めることになりました(歴史家ヨセフォスの「ユダヤ古代史」「ユダヤ戦記」など)。このようなことが起きていたので、イエスの話を聞いている人々はこのたとえをイメージしやすかったことでしょう。  

 イエスは、ここで「身分の高い人」をアケラオではなく、イエスご自身にたとえています。アケラオはローマ(遠い国)に行きましたが、イエスは十字架の死と復活後、神のおられる天に行かれました。しかしやがて再びこの地に帰って来られます(キリストの再臨)。その時までに、しもべたち(神の民たち)に1ミナずつ託してそれで商売をするように命じます。「ミナ」は、ギリシャの貨幣です。1ミナは、約100日の労働賃金に相当します。マタイ25章の「タラント」のたとえでは、与えられた金額がそれぞれ違いました。それぞれに与えられているものが違うので(量の違いというより内容の違い)、タラントは賜物をたとえていることがわかります。しかしここの「ミナ」のたとえは、10人に1ミナずつ均等に配分されています。キリストが私たちに同じに与えてくださったものは、「信仰」です。私たちが救われたのは、「信仰」によります。しかも「信仰」は、自分自身から出たものではなく、神から与えられた賜物です(エペソ2:8)。信仰そのものが神から与えられたギフトなのです。そして皆、信仰だけで救われたのです。ですから、イエスのしもべたちには、同じ信仰が与えられているのです。ただその与えられた信仰をどのように用いるかで、違う結果が出てくるのです。与えられた信仰も、それを活用する人と活用しない人で、違ってきてしまうのです。


<15〜23節>

 ここで均等に1ミナを託された10人の対応と主人の対応が、3種類に分かれています。

Aタイプ:

 与えられた1ミナで商売をして10ミナをもうけました。主人からは「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい」と言われます。

Bタイプ:

 1ミナで商売をして5ミナをもうけました。そして主人から五つの町を治めるように言われます。

Cタイプ:

 1ミナをふろしきに包んでしまっておき、活用しませんでした。その理由は、主人のことを「きびしい方、恐ろしい方」と見ていたからでした。主人からは「悪いしもべだ」と言われて、持っていた1ミナまでも取り上げられてしまいます。  


 キリストを信じる信仰が与えられて、私たちは罪から一方的に救われ、神の子とされました。その信仰は、主人であるキリストが再び帰って来られる時まで、働かせ活かしていくものなのです。イエスは、「人の子(キリスト)が来たとき、果たして地上に信仰が見られるでしょうか」(18:8)と言われました。再臨の時にイエスが見たいのは、「信仰」です。その時まで、信仰は用い続けていくのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(へブル11:6a)。そして信仰とは、「神がおられること」と「神を求める者には(神が)報いてくださる方であること」を信じることなのです(へブル11:6b)。順調な時に、このことを信じることは簡単です。しかし試練や思い通りに進んで行かない時に、それでも「神がおられる」「神が必ず報いて最善にしてくださる」と信じることは難しいのです。その時こそ、信仰が試されます。その時こそ、信仰を働かせる時なのです。信仰を活かす時なのです。ことごとく願いと反対方向に進んで行くような中で、信仰は鍛えられるのです。たとえ次々に災いに思える出来事が起きてきても、神は必ず最善に導いてくださると信じていきましょう。「神がすべての事を働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)と信じましょう。自分の願い通りにならなくても、後にそれで良かったと心から思える時がくると信じましょう。すべてのことを、神との関係で見ていくのが「信仰の生活」です。「信仰」と「生活」を切り離してはいけないのです。仕事も勉強も家庭のこともすべて神に祈り、みことばに聞きましょう。与えられている賜物さえも、信仰で用いなければ、十分活かすことができません。

 「信仰を活かすとはどうすることか」がわからなければ、銀行に預けましょう(23節)。教会が、銀行の役目を果たします。教会で礼拝に出席し、交わりに参加し、兄弟姉妹にとりなし祈っていただき、具体的な証しを聞きながら、信仰者の輪の中に身をあずけていきましょう。その中で、少しずつわかってきます。そのためにも、教会の存在は大切です。主人に対する見方が歪(ゆが)んでいると、信頼できなくなります。正しい神観をもたないと、信じることができなくなるのです。歪(ゆが)んだ自己流の神への見方をたえず、みことばで正していただく必要があるのです。


<24〜27節>

 与えられた1ミナをふろしきに包んでいた人は、持っていた1ミナを取り上げられて、10ミナもうけた人に与えられます。信仰を働かせ、信仰で与えられたものを活用すればするほど、与えられていくのです。神は、信仰によって与えられたものを、主のために喜んで用いていく人に、さらに信仰の賜物を与えてくださるのです。与えられた1ミナを十分活かして用いないなら、取り上げられてしまうのです。再臨の時に、キリストを王として迎えることを拒むなら、永遠に続く第二の死を報いとして受け取ることになります。  

 キリストは、必ず帰ってきます。その時に、この天地すべてのものは滅び去り、キリストが王となる新天新地が到来します。キリストを信じ、キリストに王になってほしいと願う者たちが、この新天新地の住民となるのです。その時まで私たちは地上で、与えられたキリストへの信仰を働かせて、キリストのために忠実に用いていくように、賜物が与えられています。それを、自分の欲や自己実現のためにではなく、キリストのために用いましょう。神から信仰のチャレンジを受けた時には、自分の側に可能性がなくても、キリストを信じて一歩踏み出しましょう。  

 終わりの時まで信仰を保てるか不安になるかもしれません。でも「信仰の創始者であり完成者はイエス」です(へブル12:2)。ですから、その方から目を離さないでいましょう。たえず主を見上げましょう。「自分の信仰」は脆(もろ)く簡単に崩れます。人間のガンバリや熱心では、信仰は続けられません。ちょっとした迫害にも負けてしまいます。上から与えられる信仰しか、役には立たないのです。再臨の時まで、たえずイエスを見上げ、イエスに向きを変え続け、イエスに仕えましょう。
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