(2017年1月)

 ・ 1月29日
 ・ 1月22日
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 ・ 1月 8日
 ・ 1月 1日
 




 1月29日
礼拝メッセージ要約 主題:「いっさいのものを満たす方」

           エペソ人への手紙1:23 三浦真信牧師

@ 教会は(いっさいのものをいっさいのものによって満たす)キリストの満ちておられるところ

  教会は「キリストのからだ」です。そして教会は、「キリストの満ちているところ」なのです。「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」を、神は教会にお与えになりました(22節)。そのキリストが、いっさいのものをみたしてくださるのが教会です。  

 ですから私たちは何でもキリストに祈り求めていきましょう。キリストは、ご自身のからだなる教会のために、必要な人、必要な物を備えて満たしてくださいます。教会を通して、目に見えないキリストが今も生きておられることを具体的に知り、キリストの言葉が真実であることを体験できるのです。


A 教会は「心の目がはっきり見えるようになる」ところです(17〜20節)

  人は、目に見えるものがすべてであるかのように生き、またたえず見えるものに心がとらわれ悩みます。しかし心の目が開かれて、神が信じる者たちに与えてくださるものが見えるようになると、それらのとらわれから少しずつ解放されていきます。心の目が開かれると、キリストを信じる者たちに与えられる「望み」、神の国で受け継ぐ「栄光の富」、神の「全能の力」(キリストを死者の中からよみがえらせるほどの)がはっきりと見えてくるのです。  

 そのような「望み」「栄光の富」「神の全能の力」を見えるようにしてくださるのが、「神を知るための知恵と啓示の御霊」(17節)なのです。神を知るため、また神が与えてくださる霊的祝福のすばらしさを知るためには、御霊の助けが必要です。御霊によって、私たちの心の目が開かれ、神が私たちに見せたいと願っておられる(私たちが見たいと願っているものではなく)キリストにある「望み」「富」「力」が見えてくるのです。  

 教会という「キリストのからだ」である共同体を通して、神は私たちの心の目を開き、あらゆる目に見えるものへの執着から解放してくださるのです。


B 教会はかつて罪の中に死んでいた者たちの集まる共同体(2:1〜8)

 この世界では、私たちを造られた神から引き離そうとするサタンの力が働いています。その力に引きずられ、自分の欲のままにかつては皆生きていました。造り主ではなく、悪魔と自分の欲に従って生きていたのです。それは、「神の御怒りを受ける」(3節)生き方であり、「罪の中に死んでいた」(1節)状態でした。その時には、「望み」どころか、罪の結果を刈り取る滅びが待っているだけでした。  

 自力では、この状態から這い上がることができない私たちを、神は見捨てずに、そこから救うキリストを遣わしてくださったのです(4〜6節)。キリストを信じる者たちを、「恵み」により「信仰」により救う道を開いてくださいました(8節)。  

 教会は、決して立派な者たちの集まりではなく、かつては罪の中に死んでいた者たちの集まりです。ただキリストを信じ受け入れて、キリストの愛と恵みによって滅びから救われ新しく生かされた者たちの共同体です。サタンに翻弄(ほんろう)され、自分の欲に従って生きることが何と空しく、希望のないことかを知って、キリストを主として生きる方向に転換した者たちの集まりです。自分の中には、救われるにふさわしいものは何もないことを認めて、ただキリストを信じたのです。  

 キリストは、私たちの罪汚れいっさいを負って、十字架で死なれました。罪なき方が、すべての人の罪の身代わりに死なれたのです。そのキリストを、神は死からよみがえらせ、今教会のかしらとしてくださいました。死からよみがえり、いっさいのものをいっさいのものによって満たしてくださるキリストが、教会の主です。教会は、その方が満ちておられるところなのです。


 私たちには、生きる限り悩みがあります。試練も何度も経験します。それが生きている証拠です。キリストを信じても、試練や患難は起きます。ただ、それらにはすべて意味があり、すべて神の御手の中にあると信じて乗り越えることができるのです。苦難を通して、神は必要なことを教えてくださり、訓練してくださり、そして私たちを成長させてくださいます(へブル12:5〜11)。人が人格的にも霊的にも成長するためには、試練や苦しみは不可欠です。試練の時こそ、キリストが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であり、「教会はその方の満ちておられるところ」であるという聖書のことばを事実として味わうことができます。

 神は、弱い私たちを思い遣って、地上に教会という共同体を与えてくださいました。そこで「かしらなるキリスト」を共に求め、キリストの生ける事実を共に味わい分かち合っていくようにしてくださったのです。キリストは、あらゆる人、物、出来事を用いて、教会を(またその器官である一人ひとりを)満たすことのできる方です。その方が、キリストを信じる者たちの礼拝と交わりの中に満ちておられます。その方の御手の中で、私たちの前に立ちはだかる大きな山のような出来事も乗り越えることができるのです。
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 1月22日
礼拝メッセージ要約 主題:「なすべき礼拝〜キリストのからだとして〜」

           ローマ人への手紙12:1〜5   田中殉伝道師  

<12:1>

 パウロが「そういうわけですから」と切り出したことは、直前の1章から11章の内容を受けています。あえて三点にまとめてみると、@私たちは新しいいのちを与えられていて罪から解放されている(6:4)、Aキリストを信じる者が罪に定められることは決してない(8:1)、B私たちは神の子とされている(8:15)となるでしょう。その上で、「そういうわけですから、兄弟たち」とパウロは続けます。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」、それこそが「霊的な」(原意は「なすべき・理にかなった」)礼拝だからだというのです。神さまの恵み、圧倒的な愛のゆえに私たちがなすべき応答は、自分自身をささげることなのです。「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。」とあるように(レビ記6:12、13)、私たちは主の前で常に礼拝を捧げ続けるのです。礼拝堂を出ても、一市民として、一社会人として、それぞれのところに遣わされたそのところで、私たちは神さまに自分自身をささげ、自分自身を聖い(分けられた)存在として整えていくことが問われます。


<12:2>

 上述の「@〜Bのゆえの神への礼拝」にこそ調子を合わせるようにという意味で、「この世と調子を合わせてはならない。心の一新によって自分を変えなさい。」と続きます。私たちはこの世と調子を合わせ、福音に生きず、なすべき礼拝をささげていない現実があります。新しく生かされていることを忘れ、罪にがんじがらめとなり、神の子とされている身分を忘れてしまうのです。しかし、だからこそ、心の一心によって自分を変え(続け)るようにとの励ましのみことばがあるのです。「心」と訳された単語の原意は考え方や理解の仕方という意味です。環境によって浮き沈みする感情ではなく、意思をもって神さまの御心を信じることを選び取っていくのです。感情をもって祈ることは、神さまとの人格的なやりとりのために必要不可欠です。しかし、感情を爆発させながらも、つまり嘘偽りのない自分を露呈しながらも、自分の言葉にではなく神の言葉についていくのが信仰です。

 それは聖霊なる神さまが助けてくださるからこそ可能になります。「自分を変えなさい」という ことばは受け身の表現です。聖霊が私たち造り変えてくださいます。そこに自分をゆだねていくのです。聖霊の働きに自分自身をお任せする、ささげると決意するのです。聖霊は私たちをキリストの福音の証人とするお方です(使徒1:8)。この世に調子を合わせてしまいがちな私たちを、福音に調子を合わせるものとして必ず作り変えてくださいます。この聖書の約束を信じ、みことばの促しには勇気を出して従う一歩を踏み出しましょう。聖霊のみわざに自分自身を委ねていきましょう。


<12:3>

 3節から「キリストのからだ」についての表現が始まりますが、原文ではここに「なぜなら」という前置詞があり、文脈のつながりが明白です。心の一心によって自分を変えていただくことが、キリストのからだのためには必要不可欠なのだということです。キリストのからだを建てあげていくためには、一人一人が福音に生きるものとして変えられていくこと、成長していくことが必要なのです。

 ひとりひとりが「思うべき限度」(3節)とは、キリストのからだを建て上げるための自分の役割とその限度のことです。からだの各器官にはそれぞれの役割があり、それぞれにあたえられた領分があります(4節)。相手の役割を尊重することと、自分の役割の大切さをわきまえることはイエス様の姿からも教えられることです(ピリピ2:3?8)。イエス様はご自分の命よりも私たちの命を尊重されました。それは、十字架にかかって死ぬというご自分の役割の大切さをわきまえておられたからです。このように、相手を尊重することと自分の役割をわきまえることは一体であり、それはそのままイエス様の姿です。文字通りキリストのからだのあるべき姿だということです。

 しかし、私たちには他の人の領域に入り込んでしまうことがありますし、もしくは、自分の役割を他の人に押し付けてしまうこともあります。キリストのからだの中で自分の分を越え、思うべき限度を超えて思い上がってしまうのは私たちの現実です。しかし、主はそのことはよくご存知での上で、このように私たちを励ましてくださっているのです。みことばは必ず成就します。聖霊は必ず私たちを「主と同じ姿に」作り変えてくださいます(第二コリント3:18)。

 「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて」、つまり信仰者らしく自分を偽るの ではなく、等身大の自分で神さまのことばと格闘し、嘘偽りのない自分で神さまの語りかけに対して真剣に応答していきましょう。聖霊はそのための助け主です。


<12:4、5>

 「キリストのからだ」についての直接の言及です。4節にも「なぜなら」という前置詞があります。キリストのからだを体現するには、体感するには、この世と調子を合わせるのではなく、福音を忘れてしまうのではなく、神さまが私たちの罪を赦し、新しい命を与え、子として扱ってくださるということを今一度思い返す必要があるのです。その福音に生きるものとして、聖霊が私たちを作り変えてくださってこそ、キリストのからだが機能していくという言い方もできるでしょう。

 私たちはすでにキリストのからだです。だからこそ、私たちは今一度、自分がイエス様に出会わなければどうにもならない存在だったことを思い返す必要があるのです。自分がどこから救われたのかをハッキリと思い起こし、今の自分があるのはただ神の恵みによることを思い出していくなら、教会がキリストのからだであること、自分がその一つの器官(「メンバー」の意)であることがいよいよハッキリとわからされていくのでしょう。

 キリストのからだの一致は作り上げるものではなく、すでに与えられているものであり、それを「保つ」ことが大切です(ピリピ2:1、2)。12章後半に出てくる奉仕の役割分担や兄弟愛についても、有名な「喜ぶものといっしょに喜び、泣くものといっしょに泣く」ことも、キリストのからだに「与えられている一致」の中で可能になります。そのためにも、心の一新によって自分を変え続けなければなりません。自分を変えてくださる聖霊様に今一度、我が身をゆだねて、お捧げしていくときに、私たちはキリストのからだの広さ・長さ・高さ・深さを目の当たりにすることになるでしょう(エペソ3:18)。そのような礼拝の日々を送っていこうではありませんか。
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 1月15日
礼拝メッセージ要約 主題:「キリストのからだA〜一つのからだ〜」

           コリント人への手紙第一12:19〜31  三浦真信牧師 

@ からだは一つ(19〜21節)

 一つのからだの中で、「私はあなたを必要としない」と、他の器官が言うことはできません。同じからだですから、他の器官がなくなって困るのは、自分自身になるのです。

 一つのからだであるということは、「からだの一部分として互いにそれぞれのもの」です(エペソ4:25)。ですから、「互いに真実を語る」必要があります(一つからだである夫婦もどちらか一方が真実を語らず我慢して黙っていたら壊れてしまいます)。「愛をもって真理を語る」(エペソ4:15)ことが、からだの成長には必要です。

 一つの器官が、「私はからだに属しません」ということもできません。手だけが、からだに属さないで別の所で動くことはできないのです。一つの器官が弱っている時に、からだは全体で助けますが、「私はキリストのからだには属しません」という人を、無理矢理からだに属させることはできません。同時に、別のからだの部分として関わることはできても、その器官を自分のからだの一部としては、助けることができないのです。

 また「私は何の役にも立たないから、からだの一部とは言えません」ということも言えません。「同じキリストのからだ」である限りは、自分では気づかなくても、一つのからだであり、器官としての役割がキリストから与えられているのです。役に立つとか役に立たないというのは、人間の見方による判断で、キリストの判断ではありません。

 それから、公同の教会(キリストを主とする世界中の普遍的な教会)という視点では、一つひとつの教会も各器官になります。ですから、他の教会から学んだり協力することは大切ですが、他の教会と同じになる必要もありません。聖書の言葉から外れない範囲で、それぞれの教会の独自性、特徴があって良いのです。どこかの教会と全く同じになろうとする必要はありません。でも必要な時には、教会・教派を超えて一つのからだとして協力しましょう。


A 弱い器官(22〜26節)

 「からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない」と言われています。弱い器官、劣っていると見られがちな器官があることで、神はからだに調和を与えて下さっています(24節)。また弱い器官があることで、「各部分が互いにいたわり合う」(25節)交わりが生まれ、からだの中に分裂がないようにしておられます(25節)。

 具体的に弱い器官とは、何でしょうか?肉体的に弱い器官、たとえば病気の方、高齢者や子どもたちも、全体の中では弱い器官でしょう。その存在によって、互いにいたわり合う気持ちが生じます。外国や別の地域から来て生活に慣れない人、独り身の方、信仰的に弱い方、すぐに落ち込んでしまう人…そういう意味では、誰もが何かしらの弱さを抱えています。その弱さがあることで、皆で支え合ったり、いたわり合う交わりが生まれてくるなら、弱さも賜物です。

 ただ気をつけなければいけないのは、教会において弱さが悪い意味での強さになってしまうことがあります。「私はこういう弱さを抱えているのだから、助けるのが当然」「私にはこのような弱さがあるのだから、その私を受け入れなさい」と、弱い人が強くなり、高くなってしまうことがあります。そうなると、いたわり合うより裁きあう交わりになってしまいます。自分の弱さに関して周囲に対しては、「ごめんなさい」と「ありがとう」しか、本来はありません。弱さを武器にして傲慢(ごうまん)になっていくなら、それは他の器官を壊していくことになります。

 パウロが、「私は大いに私の弱さを誇りましょう」(Uコリント12:9)と言っています。それは、弱い自分自身を誇っているのではなく、弱さの中に働くキリストを誇っているのです。弱い自分自身を誇って高慢(こうまん)になっていくなら、その弱さは悪魔に用いられる弱さになります。気をつけましょう。

 「一つのからだ」であるなら、「共に苦しみ、共に喜ぶ」交わりが生まれます。同じからだなので、他の器官が苦しんでいるということは、自分のからだが苦しんでいることなのです。他の器官が喜んでいるなら、自分のからだが喜んでいるのです。もし他の器官が苦しんでいるのに、「自分の器官ではなくてよかった」と思ったり、他の器官が喜んでいるのに「なぜあの器官ばかりがいい思いをしているのか」と悔しがったりするなら、それは「一つのからだ」という意識が薄れているからかもしれません。それは他の器官が悪いのではなく、自分自身の問題です。


B 役割はみな違います(27〜31節)

 パウロは、初代教会の中での役割分担(責任分担)を例にして、それぞれの器官の役割や働きが違っていることを示しています。初代教会において、福音を土台とするために、「使徒」「預言者」「教師」という役割がありました。彼らが教会の土台を築き(エペソ2:20)、その教え(福音)があって初めて、奇跡やいやしも意味をもったのです。

 「みなが使徒でしょうか」「みなが預言者でしょうか」…原語では、すべてこの後に「いえ、そうではありません」と打消しの言葉が使われています。一つのからだで、一つの器官がすべての役割を果たすことはできないし、またその必要もありません。

 ここに挙げられているのは一部であって、教会には他にも様々な役割があるのです。一人ひとりが、自分の役割を受けとり、主から託された責任として受けとめ仕えていく時に、教会は成長していきます。自分に与えられた器官としての役割が何であるのか、主にお聞きしましょう。たとえ明確な役割がわからなくても、「一つのからだの器官である」と主が言われるのですから、そのことを信じて「キリストのからだなる教会」のために祈り、また各器官のために祈り、互いに助け合いとりなし合いましょう。 
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 1月8日
礼拝メッセージ要約 主題:「キリストのからだ@〜イエスは主〜」

           コリント人への手紙第一12:1〜18 三浦真信牧師

 今年与えられた「キリストのからだ」というテーマから、2回に分けてTコリント12章より主のみこころを受けとりましょう。


@ 「イエスは主です」という告白(2〜3節)

 今年の目標の一番目に、「日々、キリストを私の主と告白しよう」とあります。「キリストのからだ」なる教会は、日々キリストを自分の主として信じ告白している者たちの集まりだからです。一人ひとりの日々の信仰生活が、そのまま教会を形成しているのです。皆が日曜日だけ「イエスを主です」と告白していても、形式的な集まりになってしまいます。日々イエスを主と告白しながら生きましょう。

 「イエスは主です」という告白は、「聖霊による」告白です。コリント教会の人たちは、もとは異教徒でした(2節)。聖霊が働いてくださって、その彼らが「イエスは主です」という告白に導かれたのです。日本も偶像を拝み、あるいはキリスト以外のもので心を満たしていたところから、人々は救われてきました。聖霊が働いてくださったのです。聖霊(プニューマ)は「風」とも訳されています(ヨハネの福音書3:8)。風は、いつどのように吹くかわかりません。目にも見えません。ただ風が吹いた後に、たしかに吹いたことがわかります(木の葉が落ちていたり、ものが飛んでいたり…)。聖霊の風もいつ吹くかわかりません。でも後になって、たしかに吹いたことがわかるのです。人が救われることも、そのような聖霊の働きによるのです。聖霊の働きなしには、決して「イエスは主です」と心から告白することはできません。

「イエスは主です」とは、

(1)「イエスは私の救い主です」という意味です。イエスだけが、私を罪からきよめ、神の子としてくださる方です。

(2)「イエスは唯一信頼し従うべき主です」という意味でもあります。誰の声よりも、この方の声を聞きましょう。人の声や自分の内側の声にではなく、主イエスの声に従いましょう。毎日聖書を読まなければ、主イエスのみ心はわかりません。みことばを通して、主の声を聞きましょう。聖霊は今も、たえず、「あなたの主の声を聞きなさい」と私たちに語りかけておられます。


A 「みなの益となるため」に用いる賜物(7節)

 この12章では、主に「御霊の賜物」のことが語られています(8〜10)。御霊の賜物が与えられても、その用い方を誤って人々につまづきを与えたり、霊的高慢に陥って、教会の中に分裂をもたらす人々がいたために、パウロは特にここで助言を与えています。

 そのような特別な賜物ではなくても、「一人ひとりがキリストのからだの各器官である」なら、それぞれに賜物が与えられているはずです。それは、自分がこれまで経験してきた専門的知識や技術もあるでしょうし、他の人は嫌がるけれど自分にとっては苦にならないというようなことでもあるでしょう。教会においては、祈りの奉仕がとても大事です。何時間でも、いくらでも祈れるということも賜物です。特定の時間は主のために自由に仕えるということも一つの賜物です。健康であるために精力的に動けること、機械に強いこと、弱い者たちと関われること、会を導けること、掃除したり整理整頓が得意なこと、何かを楽しみながら作れること、自然に伝道できること、病気で動けないけれど多くの人のためにとりなし祈ったり手紙やメールで励ましたり…どれも主のために用いるなら、大切な賜物です。それらを、自分を喜ばせるためや自分を誇るためにではなく、「みなの益となるために」用いましょう。与えられたものは、主の栄光のために用いていく時に、さらに祝福され喜びとなります。

 神はご自身の教会に、必要な賜物は備えておられます。それを互いに見出し、「みなの益となるために」用いていきましょう。


B 多様な器官がある一つのからだ(12〜18節)

 一人のからだの中に、たくさんの器官があります。からだは、そのようにたくさん器官がありながら、一つのからだです。それは、「キリストのからだ」なる教会も同じです。手足のように外から見てもよく働きがわかる器官もあれば、内臓のように外からは見えないけれど大切な働きをしている器官もあります。いまだ解明されていない、あるいは発見されていない器官もあるでしょう。キリストのからだも、外側から見える見えないに関わらず、どの器官もなくてはならない働きをしているのです。また無意識になされていて、周囲も本人も気づかないでいる働きもあるかもしれません。賜物は与えられていても、まだ活用されていない働きもあるでしょう。多種多様な器官があります。それでよいのです。みな同じ器官だと困ります(15〜17節)。 でもどの器官も、「一つのからだ」です。

 かしらであるキリストにつながり、キリストの命令を受けて動いているのです。ですから、自分の器官だけ健康であればよいわけではありません。他の器官が病んでいれば、助けたり補ったりします。自分たちのグループだけ恵まれて元気ならよいわけではありません。からだ全体が弱ると、器官である私たちも弱ってしまうのです。からだとはそういうものです。だからからだ全体のためにも、たえず祈る必要があります。教会が病んだら、私たち一人ひとりも病んでしまいます。「同じからだ」だからです。 かしらなるキリストにしっかり結びついてからだ全体の一部とならなければ、個々の器官だけでは生きられません。かしらなるキリストのもとに、各器官としての役割を淡々と果たしつつ、からだ全体のためにも祈り心を砕きましょう。
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 1月1日
礼拝メッセージ要約 主題:「キリストのからだ」

           コリント人への手紙第一12:27 三浦真信牧師

 今年は、四月から様々な変化を教会が迎えようとしています(人の変動、礼拝の変化など)。誰かが意図したわけではなく、神様のご計画の中で、一つひとつのことが導かれてきました。それだけに、神様が私たちの霊の目を覚まして、チャレンジを与えておられるようです。今まで誰かが当然のようにしてくださって動いていたことが、動かなくなるという不自由も経験するかもしれません。皆で責任分担して負い合わなければ、各個教会は簡単に消滅してしまいます。日本でも世界でも、昨年どれだけ多くの教会が閉鎖したかわかりません(代わりに新しい教会も生まれています)。誰も教会のために祈らなくなり、また誰かが何とかしてくれるだろうと他人事のように思っていたら、教会は存続できなくなります。いい意味での危機意識が、また祈りとなります。そして新しい行動を生み出していきます。

 地上の教会は、罪赦された罪人の集まりですので、どこまでも不完全です。人に求めたら、幻滅するしかありません。それでもなお、教会は「キリストのからだ」と聖書で言われています。そのことの意味を、自分のからだで体得しましょう。


今年のテーマは、「キリストのからだ」(Tコリント12:27)です。目標として、

@ 日々、キリストを私の主と告白しよう

 「教会のかしら」はキリストです。「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」を、神は教会にお与えになりました。そして教会は、「いっさいのものをいっさいによって満たす方の満ちておられるところ」です(エペソ1:22〜23)。「キリストが私(たち)の主である」ということだけが、教会共通の事実なのです。キリスト抜きには、教会ほど一つになることが難しい集団はありません。年齢もタイプも感じ方も、皆違います。生活背景も生い立ちも皆違うのです。ただ「キリストが主である」ということで、私たちは同じ共同体として認め合うことができるのです。ですから、「キリストが私の主です」という告白が毎日必要なのです。

A 「キリストのからだ」としての交わりを大切にしよう

 教会は趣味サークルでも、娯楽施設でもありません。間口を広くするために、様々な活動が継続されていますが、その目指すところは同じ「キリストのからだ」です。主であるキリストのことばを共に分かち合い、同じかしらなるキリストを共に礼拝し、またこの方にどんなことも祈っていくのが教会です。どんな集団でも、集まる目的があります。それがなくなると、それぞ れ好き勝手なことをしてバラバラになり、空中分解していくしかありません。それは教会といえども同じです。「何のために集まっているのか…」を忘れないようにしましょう。そのためにも、毎日少しずつでも聖書を読み、「キリストのからだ」を意識して交わりを共に持ちましょう。

B 「キリストのからだ」の器官としての役割を果たそう

 「ひとりひとりは(キリストのからだの)各器官なのです」と言われています。からだの器官には、それぞれの役割があります。造り主である神からご覧になって、どれ一つ無意味に存在している器官はないのです。頭には頭の役割があり、足には足の役割があり、口には口の役割があります。それぞれの器官が、自分の器官としての役割を健全に忠実に果たす時に、頭(かしら)がまとめたり命令して、からだを一つにし、成長を与えます(エペソ4:16)。そのためには、どの器官もかしらなるキリストにしっかり結びつかなければなりません。自分勝手に良いことだと思って、口が目の役割まで果たそうとしたり足が頭の代わりをしようとすると、おかしくなります(一つの器官が傷んだり弱っている時に他の器官が助けることはあります)。他の器官と同じことをする必要はありません(Tコリント12:19〜21)。それぞれに与えられた分があります(ローマ12:3〜5)。しっかりかしらなるキリストに結びつき、キリストに聞きながら、教会における(あるいは社会や公同の教会における)自分の器官としての役割を果たしましょう。また器官としての役割は、永遠に続くものと、その時代や年齢によって変わるものもあります。かつて受け取った役割も、一度白紙に戻して、今どの役割が与えられているのか、キリストにお聞きしましょう。
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